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『アートがわかると世の中が見えてくる』/前崎信也 感想

数年前に書いた文章ですが、掘り出したので載せてみる。

『アートがわかると世の中が見えてくる』/前崎信也

口語っぽさがある文章のため読みやすくはあるが、すこし嫌味っぽい、癖のある文章。
現在日本の文化とされるものがどのように生まれて、今までどのような変遷を遂げてきたかはよく分かった。が、全体的に根拠の提示が少なく、所感がけっこう含まれているように思えてしまう箇所もあった。

 読みながら色々と思考をした文章がたくさんあったけれど、そのなかから一部、本文を引用しつつ自分の考えを述べたい。

その理由(=伝統が絶滅しかけている理由)には色々とありますが、根源にあるのは、日本・京都にはびこる「今ある伝統文化は今あるままに継承しなければならない」という考え方です。

『アートがわかると世の中が見えてくる』/前崎信也 80頁

芸術も文化も未来につなげていくためには、同じ場所に立ち止まらずに、科学の進歩に合わせて変わり続ける必要があります。その変化を止めると、あっという間に時代遅れのものになってしまうからです。

『アートがわかると世の中が見えてくる』/前崎信也 85頁


これについては同意見だ。
そもそも伝統とはなんだろう。伝統とは、時代の流れによって盛衰や変化を繰り返しながらも脈々と受け継がれ、そして今も残り続けているものではないかと私は思う。

仏閣の場合・・・ 仏閣は、寺院や僧侶を排斥する廃仏毀釈運動により淘汰された時代があった。歴史のなかでずっと尊ばれ続けてきたわけではない。

能の場合・・・ 2020年11月9日、東京銀座の観世能楽堂にて、能舞台でのファッションショーとコシノジュンコがデザインした装束をつけた能公演がおこなわれた。能楽師である観世清和は「700年の歴史を持つ能楽は、現代の感性をもっと取り入れないとだめ。新しい衣装で、心境地に行ける。ただ、能とファッションの境界線をきちんと認識してやることが大事だと思った」(「朝日新聞デジタルマガジン&[and]」、「コシノジュンコ×観世流 能とファッションショー、融合で心境地」)と述べている。

伝統を継ぐにあたり、伝統への敬意は忘れてはならないし、長い時間のなかで培われてきた精神や軸を揺るがすようなことはあってはならず、その線引きが難しい。「古き良き」を追求するあまり、時代にそぐわない形になってしまえば後世にまで残り続けることはない。いっぽうであまりにも現代人へのウケを意識しすぎてはもはやそれは本来のものとは別物になってしまう。

祭礼の山車の場合・・・ 明治初期ごろから各地の都市に電線が架設されるようになったが、それに伴い多くの都市祭礼では山車が廃絶あるいは小型化した。博多の博多祇園山笠に用いられる山車は明治初期には16メートルの高さがあったが、明治後期には5メートル未満となった。山車の縮小によりその飾り物も減り山車の豪華さという見どころが失われ、もう一つの見どころであった速さがより追求されるようになる。1241年を起源とするこの祭礼は、現在のものは当時のものと比べ大きく変化しただろう。その変化をどう捉えるかは人それぞれ。しかし電線が架設されたとき、古くからの形式にこだわって山車を縮小することを拒んでいたら、今この祭礼を私たちが見ることもなかったかもしれない。

伝統を継承するにあたって、伝統を昔からのかたちのまま受け継ぐのではなく、時代の流れに合わせて柔軟に変化していくことは、伝統が後世にも残っていくのに大事なことだ。ただ、柔軟に変化しつつも神髄となるものは決して揺るがしてはならない。そのものに対して深く理解し、ぶれない軸を持つこと。それが伝統を継承してきた人々への敬意にもつながるように思う。


エリートな男性がいなくなれば文化は壊れる

『アートがわかると世の中が見えてくる』/前崎信也 93頁

エリートな男性そのものが文化を維持してきたというよりも、権力や富のある者が文化を維持する力があり、そういう人がエリートでかつ男性であったのだと思う(男女や身分における差別の問題もかかわっているように思う)。文化を維持してきた者はいつの時代も権力者。

ただ現代は少し違うような気がする。昔よりも身分による差別もなく、さまざまな情報にだれでも容易にアクセスできる。クラウドファンディングなど経済的な支援も、その支援をしてもらうための周知さえも容易にできる。美術品の購入もネットを介して手軽におこなうことができる。現代では一般の人も文化を維持する力があるのではないか。

 

とても残念なことに、学芸員の世界とは、「一般の人々の面白さ」を重要視する世界ではないのです。

『アートがわかると世の中が見えてくる』/前崎信也 150頁

ここら辺の文章をざっくり要約すると、学芸員の世界では「来館者が楽しむ展覧会」よりも「専門家が感心する展覧会」を優先しているという旨。

そんなことはないと思う。私は大学で学芸員の資格を取得したけれど、その必修科目において、博物館は生涯教育の場、社会教育施設であり、そのため万人に開かれたものであるべきという理念は十分に示されている。博物館実習でも学芸員のかたは展示のしかたについても解説文についても、子どもでも見やすいか、わかりやすいかということを考えていた。

例として(美術館ではないが)、神奈川にある平塚市博物館は数多くの市民参加事業を展開し、その活動成果を博物館そのものの調査・報告活動に直結させている取り組みが全国に知られている

平塚市博物館は、来館者である市民と交流することで地域に根差した博物館となっている。そこには専門家が評価をするかどうかという視点は含まれていない。

また森美術館で2019年に開かれた塩田千春展にかんして、美術評論家の椹木野衣は『新潮 2020年 02 月号』「ボイコットをボイコットする」において「作家の思いなどとは無関係に、てんでバラバラにインスタ映えする写真を撮るための一種の集合的な撮影スタジオと化している様を見て、批評の対象としての鑑賞はもはやきわめて困難だと感じざるをえなかった。」と述べている。ちなみにこの展覧会は2019年の展覧会入場者数第2位だった。

じっさいにこの展覧会を訪れたが、写真撮影可だったこともあり多くの人が写真を撮っていた。来館者は若者が多く、インスタ映えするような大規模で華やかな作品の周りには多くの人が集まっていた。
また会場内で携帯電話の着信に応答する人がいて、監視員のかたに注意されていた。これにはさすがにびっくり。ふだんはあまり美術館を訪れないような人も多く来ているようだった。
この企画展は評論家の評価よりも一般人への受けを意識しているものと言えるのではないか。
専門家の評価を重視する/しない展覧会が良いとも悪いとも言わないが、著者のように、博物館が「来館者が楽しむ展覧会」よりも「専門家が感心する展覧会」を優先しているとは、上記の例をふまえると一概には言えないだろう。

 

おしまい!


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