#125遅刻と怠惰(二)-続・近代はどうやって地域にやってくるのか?-
今回は前回に引き続いて、近世的な時間感覚と近代的な時間感覚について、暦を例にしたお話を紹介したいと思います。
近世では月の満ち欠けを暦の基準とした太陰暦によって人々は生活をしていましたが、明治新政府は明治五年(一八七二)一二月三日を明治六年(一八七三)一月一日として太陽暦に変更し、以後の暦として採用しました。
また、太陽暦を導入して以降、日本においても七曜制が導入され、明治九年(一八七六)から官庁において日曜日を週休日に設定しています。
また、近代においての休日として「祝日」の設定もあります。春季皇霊祭、秋季皇霊祭、神武節などがそれにあたります。
一般の地域住民においては、農作業に関連して、作業上に関する事柄や年中行事などに関連する「農事暦」が普及していました。そのため、地域においては七曜制と異なった休日が設定された農事暦との軋轢も発生しています。農事暦の休みとして、田植えの休み、稲刈りの休みやあるいは秋祭りなどが設定されています。この点は地域それぞれの特色が出て異なるところもあるかも知れません。
筆者の見たことのある地域では、京都府乙訓郡上植野村においては、明治一八年(一八八五)二月一一日は「紀元節休日也」、四月三日を「神武天王(ママ)祭 休」とあり、紀元節をや神武天皇祭といった公に決められた祝日を休日として休んでいる記載があります(「京都府乙訓郡上植野村役場日誌(二)」)。
しかし、この日誌には日曜の記載があって、日曜を休みとしているのですが、明らかに日曜でない日にも「村中休」と記載されているところもあります。この辺りが農事暦と関連した村独特の休日ととらえることが出来ます。
また別な時期では、明治一九年(一八八六)七月二三日「村中雨悦ニ付休日」とあり、長らく雨が降っていなかったため、前日の七月二二日ににわか雨が降ったことを、農業にとって喜ばしいこと、という位置づけで村中が休日にするということも記されています(「京都府乙訓郡上植野村役場日誌(四。)」)
このように、公的な祝日を休日として受け入れつつも、従来の地域での農事暦を中心とした村の休日も併用して休みとしている様子が見て取れます。このあたりに地域住民の近世的感覚と近代的感覚の併用、といえば聞こえはいいですが、ご都合主義的な面というか、したたかさというか、地域住民の強さを垣間見ることが出来るでしょう。
地域住民は、近世的感覚と近代的感覚を行き来しながら生活をしている訳ですが、こと学校教育となるとそうもいきません。学校では日曜が休日で、それ以外は祝日でない限りは登校しないといけません。
日露戦争期の学校日誌などをみると、田植えの時期や稲刈りの時期はぐんと出席率が下がっています。これは学校に行くよりも家の手伝いをしていたために登校していなかったといえます。このような様子を近代的な見方で見ると怠惰であるとみられるでしょうが、明治時代の後半になったこの頃でも、まだ地域社会には「近世的世界」が続いてた、というようにも評価出来ると思います。
何となく教科書的には、明治元年から近代が始まり、近代的な社会で地域住民も生活しているんだ、と思いがちですが、こと「村の社会」においては、制度や習慣などが社会の隅々まで行き渡るのは並大抵のことではなかった、といえるでしょう。
ちなみに余談ながら、先に挙げた「京都府乙訓郡上植野村役場日誌」に麦の収穫時期の記載で、中村軒の麦代餅を買ったという記載が出てきました。中村軒というのは、桂離宮のすぐ南にある桂橋のたもとにある和菓子屋で、明治一六年(一八八三)の創業です。この店の名物が麦代餅(むぎてもち)です。この麦代餅は麦の収穫時期に、麦の代金の代わりとして物々交換として麦代餅二個と交換したという、物々交換の名残が名前に残る和菓子です。この麦代餅の中村軒が創業当初の頃に、既に上植野村へ出入りしていた様子も記されています。筆者はこの日記の記載から、当時の雰囲気を味わいに、実際に店に行って麦代餅を買って食べことがあり、非常においしかったことを記憶しています。もし機会がありましたら、是非行ってみていただければと思います。
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