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おはなし

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おはなしまとめました。
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秋夜の桜

秋夜の桜

 本当は随分前から気づいていた。彼女の心がもうここにはないことを。

 彼女が初めておれの部屋に来たのは春だった。川沿いの桜並木の脇に建っているこじんまりとした五階建てのマンション。その三階のおれの部屋の窓からは満開の桜とよく晴れた青空が見えていた。
「わあ、眺め最高だね」
 彼女は部屋に入るなりそう言ってベランダへ飛び出していく。
「ん、いいよな。去年内覧に来たときにはもう葉桜だったから、おれも

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小確幸の日日

小確幸の日日

 むかしむかしから魔法使いといえば、十三歳の満月の夜に魔法使いのいない街を見つけて定住し修行を積むべし、とされたが、現代においてそれは容易いことではない。義務教育も終えていないものが、保護者の後ろ盾もなく、ひとりで暮らすのも、ましてや他の魔法使いがいない街を自分だけで見つけるのも、とても無理な話だ。
 そしてなにより、時が経つにつれ、強大な力を持つ魔法使いが少なくなり、ほとんどが周りのひとと変わら

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青東風吹いて

青東風吹いて

 今年は三年ぶりの花火大会。
 他所に漏れず、もろもろの心配はあるけれど、開催に漕ぎつけた主催者側の人間としては、たいへんうれしいし、毎年有無を言わさず割り振られる炎天下での観客整理もはりきってしまう。

 しかし、デニムのポケットに入れておいたペットボトルの水はもうほとんどお湯に近い。
 びゅうっと風が通り過ぎるけれど、蒸し暑さは日が高くなるにつれ、増していくばかりだった。

「はああ、あっつ」

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暑熱順化

暑熱順化

 コロナ禍以降、基本リモートワークだったが、ひさびさに出社する今日は、梅雨時期特有の蒸し暑さに加え、運動不足と満員電車が重なったからか、具合が悪くなってしまい、会社がある駅にたどり着く前に電車を降りてしまった。
 ホームに設置してあるベンチに間に合わず、その場にしゃがみ込んでいったん落ち着くのを待つ。幸い急行が止まらないこの駅は比較的空いており、ほかのひとの迷惑にはなっていない、と思う。
 暑いは

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マイルール

マイルール

 わたしは料理がすきだ。
 仕事で嫌なことがあっても、スーパーに寄って納得のいく買い物をして家に帰り、黙々と何品か手際よくできあがれば、その達成感でリセットできる。
 でも最近思うのは、誰かに食べてもらえるっていうのも重要なんだなってこと。ひとりだと簡単に済ませてしまいがちだが、一緒に食べるひとがいれば好みや食べ合わせも考えるようになる。あらためて同居人の存在をありがたく思う。
 同居人は弟の親友

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喫煙所にて

 午後からの会議が終わり、ひと息入れに来たら、よく見知った顔が傍らに設置してあるベンチで紫煙を燻らせていた。
 こいつは高校時代の部活仲間で、大学は別だったが、おれが試合のときはみんなで応援に来てくれていたし、バスケは大学で終わりと就職したら偶然同じビルに会社が入っていたという、いわゆる腐れ縁てやつ。
「おつかれ」
「おー、おまえも休憩?」
「ん。さっき来客が終わってね」
「そか、最近ここで会わな

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はつこい

はつこい

 今日は卒業式。
 自由な校風で生徒会に自治が委ねられているこの高校では何代か前の生徒会が卒業式の日を毎年三月十四日にすると決めた。そんな高校故、制服も廃止されてひさしい。いわゆる卒業式の日に第二ボタンとセーラーのスカーフの交換といったものはなく、想いが通じ合ったものどうしは校章を交換していた。もろもろに配慮したと思われるこの校則は、気が利いていると概ね好評だったが、そういった行事に無縁のわたしは

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朱夏

朱夏

「変わらないな」
 高校卒業以来の夏の帰省。実家の最寄り駅に降り立って呟くと、線路脇からの草いきれにむせそうになった。蝉の声が姦しい。田圃の合間に敷かれたレールの上を走り去る列車は陽炎が立ちゆらゆらと揺れていた。
 もともと田舎を絵に描いたようなこの地がすきではなかったおれは大学進学と同時に上京し、そのまま東京で就職も決めた。忙しさにを理由にほとんど帰省せず、特に夏は痛い思い出があったため実家から

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