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朱夏

「変わらないな」
 高校卒業以来の夏の帰省。実家の最寄り駅に降り立って呟くと、線路脇からの草いきれにむせそうになった。蝉の声が姦しい。田圃の合間に敷かれたレールの上を走り去る列車は陽炎が立ちゆらゆらと揺れていた。
 もともと田舎を絵に描いたようなこの地がすきではなかったおれは大学進学と同時に上京し、そのまま東京で就職も決めた。忙しさにを理由にほとんど帰省せず、特に夏は痛い思い出があったため実家からは自然と足が遠のいていた。
 しかし、八月初めに母からの知らせで、彼女がいま実家に来ていると聞くと、いてもたってもいられず、溜まっている有給休暇に盆休みを合わせて、入社以来の長い夏休みを取ることにした。
 駅を出ると母が車で迎えに来てくれていた。
「おかえり。ちゃんと食べてるの。仕事はどう、うまくいってるの」
 母の矢継ぎ早の質問を適当に流しながら窓の外を見ると、駅前通りは昼間だというのにシャッターを下ろした店舗が多く、変わらないと思った景色に移ろいを感じた。
 ひさしぶりの我が家。玄関には彼女がいた。顔を見た途端、記憶はあの夏に引き戻される。変わらぬ雰囲気を纏って立つ彼女は、おれのはじめてのひとだった——。


 おれが高校三年の夏、母方の遠い親戚だという彼女は夫を亡くしたばかりで、手続きなどのためフランスから一時帰国した際、おれの家に十日間ほど滞在した。

「すみません。お世話になります」
「そんな遠慮しないで。もう日本には家もないんだし、ここが実家と思ってくれていいから」
 ひさびさに友人にも会いに行く予定だと屈託なく話す彼女を見て、母は安心したようだったが、おれはどこか引っかかるものを感じていた。
 おれは幼いころ彼女に遊んでもらったことをまったく憶えていなかったので、ほぼ初対面でひと目惚れしてしまった。さらに彼女と接すると、ふだんおれの周りにいる同世代の子たちとは違い落ち着いているし、いろいろなことを知っていて話すとたのしかった。だいぶ歳上のはずなのに、笑うと幼くなるところもすべて魅力的だった。
 大学受験を控えていたものの、夏休み中で部活動は引退し時間があったおれは、散歩が日課の彼女についていっては近所を案内したり、彼女がフランスに持ち帰る日用品等の買い出しに行くと言えば荷物持ちをしたり、ことあるごとに彼女にまとわりついていた。そんなおれを見て、やはり大学が夏休みで帰省していた兄は、金魚のフンとからかったが、どこへ行くにもついてくるおれに、彼女はいつも微笑んでいてやさしく、その様子はおれを好ましく思ってくれていると感じさせてくれてうれしかった。
 それがたとえ弟や甥っ子などに向けるような感情だったとしても。


 その日は友人の家に泊まりがけで遊びに行った彼女が帰ってくる日だった。彼女が渡仏する日も近づいている。学校で受験のための補習を終えたおれは、帰宅してすぐ彼女を探した。
 おれの家の構造は少し複雑で、二つの家が繋がったようになっている。祖父は兄が生まれたときに家を建てたが、同じ敷地内にある元から住んでいた家を壊さず一階を廊下で繋げ、いまで言う二世帯住宅としたようだ。祖父母はすでに亡く、母家は一階にある居間と台所、仏間だけを使っている状態だった。彼女はおれの部屋がある離れ家の二階とは別の、母家の二階にある続き間の奥の部屋を使っていた。
 おれがその続き間の手前の部屋まで来たとき、奥の間の襖は閉まっていた。エアコンのないその部屋で襖を閉め切ったままでいるはずはないと思い引き返そうとすると、奥の間から声が聞こえてきた。襖へさらに近寄ると、それが彼女の泣き声だとわかった。

 それは愛するひとを亡くしたひとの悲しみだった。女性の部屋を覗くなどいけないとは思ったが、心配になったおれは襖を少しだけ開けて様子を伺うことにした。驚いた。彼女はたしかに亡くなった夫を思って激しく泣いていたが、それとともに自らを慰めてもいたのだ。驚いたが、暑いなか閉め切った部屋で、額に汗を滲ませながら吐息を漏らす彼女があまりにきれいで見惚れてしまっていた。少しして彼女は小さな呻き声をあげると体が震え達したようだった。
 おれは金縛りにあったようにその場から動けなくなっていた。
「ねえ、いつからそこに」
 彼女に声をかけられてやっと我に返った。
「ごめん。泣き声が、聞こえたから」
 目を真っ赤にした彼女は布団から起きあがり、一瞬咎めるようにおれを見たあと目を伏せた。
「……誰にも言わないで」
 震える声でそう言った彼女がまるで悪戯を叱られた小さな女の子みたいにいじらしく、おれは駆け寄りその細い肩を抱きしめていた。
「言うわけないだろ」
 おれがそう言うと彼女は安心したようにため息をついた。そんなおとなの女性の無防備な姿にたまらなくなり、おれは彼女を押し倒していた。しかし、覆い被さり見下ろした彼女の、いつもとは違う眼差しをまともに受け止めてしまい、どうしていいかわからず固まってしまった。
「大丈夫。そのままでいいよ」
 彼女はやさしく言っておれの頭の後ろに手を回し、引き寄せてキスをした。そして起きあがって反対におれを押し倒すと、一瞬目を見開いて驚いたような顔をしたが、すぐに制服のシャツのボタンに手をかけた。よく見ると彼女は寝巻き用にと貸したおれのTシャツしか纏っていないようだった。
 目眩が、した。
 おれは夢中でそのTシャツのなかへと両手を滑り込ませ膨らみをまさぐると、彼女は白い喉を見せて仰け反った。情けないおれはそのあとはもう彼女に身を任せるしかなかった。初めての感触にどうにかなりそうだった。ただただ気持ちよくてしあわせだった。

 日が傾き奧の間に入ってきた西陽が頬に当たって目が覚めた。彼女は健やかな寝息で眠っている。さきほどは気がつかなかったが、目の下に薄らと隈が見える。もしかすると彼女はよく眠れていないのかもしれない。おれは彼女を起こさぬように布団から抜け出し、身支度を整えてそっと奥の間を後にした。

 それからのおれたちは昼も夜もお互いをむさぼりあった。いけないことをしているという背徳感と、もうすぐ離れ離れになってしまうという焦燥感は、ふたりを夢中にさせた。
 彼女は初めての日こそ夕食時には目を合わせられないほど動揺して、夜が更けてまた奥の間へ忍び込んだおれを見ると、両手で頬を包み青ざめていたが、根気よく宥めてようやく受け入れてもらった。
 一旦覚悟を決めた彼女はより大胆におれを誘惑し、求めるようになった。それに応え、初めは彼女にされるがままだったおれも彼女を悦ばせることができるようになっていった。

 また、フランス語が堪能だった彼女は語学のたのしさや有用さを教えてくれた。お互いの話もたくさんした。亡くなった彼女の夫のこと、パリでの暮らしのこと、進路のこと、部活のこと。
 そのとき、彼女は夫を亡くしてからずっと不眠症に悩んでいることも話してくれた。おれとした後はぐっすり眠れると言って少しつらそうに微笑んだ。そんな彼女は儚げで美しく、おれは彼女に頼られているように感じ、ますます惹かれていった。


 別れは急に訪れた。
 登校日の放課後、かき氷を食べに行こうと誘う仲間を振り切り、彼女に早く会いたくて急いで帰宅したが、彼女の部屋はもぬけの殻だった。出国まではまだ日にちがあるのに。
 呆然と立ち尽くしていると、平日のこの時間にはいないはずの母が二階に上がってきた。それですべてを悟った。母が、彼女を追い出したのだ。
 おれは彼女がいつ出て行ったかもわからないのに家を飛び出していた。母の声が後ろから追いかけてきたが、なにも聞きたくはなかった。自転車に乗って駅までの道を全速力で走った。息が上がって、焼けたアスファルトの臭いが苦しかった。途中かき氷帰りの仲間たちとすれ違ったが、その声に応える余裕はなかった。
 汗だくになってやっと駅に着いたとき、急行列車の後ろ姿が遠くに見えた。おれは間に合わなかった。
 膝に手をついて肩で息をしながらしばらく動けずにいたが、ふと駅の片隅にある伝言板に気がついた。
『ごめんね。ありがとう。元気で』
 宛名も署名もないメッセージ。彼女だと思った。おれはそこから立ち去ることができず、伝言板の文字を愛おしくなぞっていた。汗の引いたおれの顔はいつしか涙で濡れていた。
 すっかり暗くなってから家に戻ったが、おれの様子を見た母はもうなにも言わなかった。


 それからのおれはすべてを振り払うかのように受験勉強に打ち込んだ。少しでも気を緩めれば、だいすきだった彼女を、突然過ぎた別れを思い出してしまうから。それに、もし大学受験に失敗してしまったら、きっとそれは彼女のせいだと言われてしまうだろう。それだけは絶対に避けたかった。

 春になり、おれは東京にいた。無事第一志望の大学に合格し、ひとり暮らしを始めた。目紛しく変わる環境のなか、狂おしいまでの彼女への思いはだんだんと薄れていった。いや、思いに蓋をして閉じ込めて考えないようになっていったと言ったほうがいいだろうか。
 大学生活に加え、アルバイトをいくつか掛け持ちしたおれは、正月以外実家へはほとんど寄り付かなくなった。
 さらに就職はあえて地元には拠点がない会社を選び、入社以降はまさに昼も夜もなく働いて、あっという間に六年目になっていた。


「おかえりなさい」
 彼女が玄関にいたのはちょうど出かけるところだったからのようだ。黒地に白い水玉模様のワンピースに小ぶりのストローバッグを持っている。あのころ長かった髪が、いまは短くなっていた。
「ん。ただいま」
 会ったら、言いたいこと聞きたいことはたくさんあったはずなのに、おれの口からは言葉がまったく出てこなかった。少し気まずい沈黙が流れる。
 そこに買い物袋を下げた母が入ってきた。彼女に、はい、と車の鍵を渡す。
「ありがとう、ねえさん。じゃあちょっと出かけてくるね」
 彼女はひとまわり以上も歳の違う母を姉のように慕い、ねえさん、と呼んでいた。その呼びかけが彼女が立ち去ったあとも懐かしくおれの耳に響いていたが、母の声でかき消される。
「ほら。お茶でも淹れるから、荷物置いてらっしゃい」

 おれの部屋だった離れ家の二階の部屋は、県内で就職した兄が家族を連れて帰省した際に使っているため、おれは母屋の玄関を入ってすぐ右の仏間と続き間の小部屋をあてがわれた。
 荷物を置きに部屋に入ると布団が出してあった。ふわふわとして気持ちよさそうに見えて思わず倒れ込んでしまった。やはり干したばかりだったようでいい香りがする。ひさびさに帰省する息子のために準備してくれた母に感謝した。

 束の間微睡んだようだ。襖をノックする音で気がついた。
「お茶入ったよ」
 母が襖を開けて声をかけてくれた。着替えて居間へ行くと、母はほうじ茶と水羊羹を用意してくれていた。熱いほうじ茶は夏バテ気味の身体にはちょうどよく、甘い水羊羹は長距離移動で疲れた身体に沁みた。

 ほっとひと息ついたところで、おもむろに母が話し始めた。
「ずっと夏には帰ってこなかったのに……やっぱりあの子に会いたかったのね」
 おれは口に含んでいたほうじ茶でむせた。慌てて傍らにあるティッシュを取り口元を拭く。母はそんなおれを気にもとめず続けた。
「あのとき、どうするのがいちばんよかったのかって、ずっと考えてた。あの子のことは妹みたいに思ってたから、力になりたいとは思ってたけど……」
「ん。彼女も親戚中で母さんがいちばんよくしてくれたって」
「うん、たぶんそうね。でもそれとこれとは別。あなたはまだ高校生で、しかも受験生だったでしょう。常識で考えたら、歳の離れた未亡人となんて、とても賛成はできなかった」
「それは、おれもよくわかるよ」
「あの子がいなくなったあと、勉強に打ち込んでくれて、ほっとした。わたしは間違ってなかったって。でも、そうじゃなかったんだよね」
 それまで手元の湯呑みを見つめながら話していた母が顔をあげておれを見つめた。
「ここを出たあと、夏にはまったく帰ってこないのに気づいて初めて、それくらいの思いだったのかって……今更だけど、ごめんね」
「母さん、謝らなくていいよ。おれは、」
「もう子どもじゃないんだし、自分の思うとおりにしていいんだからね。わたしが言いたいのはそれだけ」
 母はおれの言葉を遮ってひと息でそう言うと、庭に目を移し、しばらく眺めたあと呟いた。
「あのひとが生きてたら、なんて言ったかな」

 父はおれが就職して三年目の春、急に亡くなった。膵臓がんだった。以来実家には母が独りで住んでいる。
 とても仲のよい夫婦だったので兄もおれも母を心配したが、三年経って、小学校での事務の仕事はもちろん、家のすぐ脇にある畑での野菜づくりや友人とのふだんの行き来、国内外への旅行など、いまの生活をたのしんでいるように見える。それでも父を懐かしむ母の横顔は少し寂しげだった。

 涼しい風が出てきた夕方、おれは散歩に出かけた。田圃沿いの農道を歩く。青々とした稲の葉がさわさわと風に揺れている。午前中のうちに咲いた稲の白い花はもうしぼんでいた。
 少し行くと田圃のなかに大きな木に囲まれた一画がある。地元の小さなお宮様だ。ひさしぶりにお参りすることにした。境内は鬱蒼としており、いまはすでに夕方なので涼しいが、ここは日中も涼しいので幼いころはよくここで友達と遊んだなと懐かしく思い出した。
 お宮様にひさしぶりの帰省を報告した。しばらく境内で休み、そろそろ帰ろうかとまた農道に出たところで、母の車に乗った彼女が通りかかった。彼女が車を停めてくれたので助手席に乗りこむ。緊張をほぐすためにひとつ深呼吸をした。
「このへんもふたりで散歩したよな」
「お宮様、連れてってくれたよね。懐かしい」
「稲の花しぼんでたよ」
「わたしは午前中見れたよ。かわいかった」
「明日見たいな。散歩一緒にしてもいい」
「うん。もちろん」
 ふたりで何気ない話をしていると、またあの夏に戻ったような感覚がしてくる。彼女は変わらず、おれにやさしく微笑みかけてくれていた。いまなら聞けそうな気がした。
「なあ、あの日からいままでどうしてた」

 彼女は静かに語ってくれた。
「あのときのねえさんの気持ちはすごくわかる。だけど、ねえさんはわたしを責めなかった。ただ、このまま突き進んでしまったら、ふたりともだめになるって言ってくれたの。あなたはまだ高校生だったし、わたしは夫を亡くしたばかりで、どうやって生きていくかも決められずにいたから」
 それから彼女はフランスに戻って、パリで日本食や雑貨を扱っていた夫の仕事を引き継ぎ、現在は卸業のほかフランス人の共同経営者とパリに店舗を開き、切り盛りしているそうだ。
 今回の帰国のいちばんの目的は母に会うためであったが、日本でフランスの雑貨などを扱う店舗を出店するためでもあって、しばらくはフランスと日本を行き来するが、ゆくゆくは本帰国するつもりだという。

「不眠症も治ったよ」
 そう言って微笑む彼女を見たとき、おれのなかにふと記憶にある光景が浮かんだ。
「それはその、いま一緒にいてくれるひとがいるってこと」
 おれの問いに彼女は首を横に振った。
「もちろん病院には行ったけど、いちばんはあなたのおかげ。ここで生きる希望をもらったから」
 ずっと穏やかに話していた彼女が、少しつらそうな表情になった。
「でも、あなたに会うのが怖くて……なんにも言わずにいなくなったし、もうわたしのことなんて忘れてるって思ってた」
「……おれは、忘れたことなんてなかったよ。それに、あの日おれは間に合わなかったけど、駅で伝言板を見つけた」
 ちょうど家に着いて車を停めた彼女がこちらを向いた。見開いた目が潤んでいる。おれはそれを見つめ返して頷いた。
「見たんだ。メッセージ、ちゃんと受け取ったよ」

 夜、おれは彼女の部屋へ行った。彼女はあの夏と同じ母屋の二階の部屋を使っていた。風を通すため階段脇の窓も彼女の部屋の襖も窓もすべて開け放っている。海から吹く風と波の音が心地よい。彼女は布団に横になっていて、枕元に置いた電気スタンドの灯りで手元を照らし読書をしていた。お腹にはタオルケットがかけられている。おれは彼女の傍に腰を下ろした。彼女から本を取り上げ脇に置いて、そっと頬を撫でると彼女はくすぐったそうに目を細めた。
「かわいい」
 気づいたら口をついて出てしまっていた。照れ隠しに彼女の唇に唇を重ね、彼女の背中に腕を回し抱きしめると互いの心臓の音が重なった。
「ずっとこうしたかった」
 彼女はされるがまま、おれに身を任せた。

 ふたりは会えなかった年月を埋めるように、強く深く抱きしめ合い、お互いの名を呼び、愛の言葉を紡いで、何度も確かめあった。
 夜が更け、脱力して微睡んでいた彼女が薄く目を開いた。目が合うと恥ずかしそうに、おれの胸に頭を埋める。
 今度はおれが話す番、そう思った。抱きしめた腕を解いて彼女を起こし向かい合った。
 そして、おれは誰にも打ち明けたことのない話を始めた。夕方に一瞬だけ思い出したあの日の記憶——。


 それは大学二年の夏。おれは一大決心をして夏休みにパリへ行くことにした。もちろん彼女に会うためだ。アルバイトをして約一年半で貯めた金をほぼすべてはたいても二泊四日の弾丸旅行の資金にしかならなかったが。
 パリの住所は、その年の正月に帰省したときに母の文箱を探り、彼女からのエアメイルで確認済みだった。
 空港に着いて、はやる気持ちを抑えつつ、ホテルへと向かった。チェックインして、部屋にスーツケースを運ぶとすぐ彼女のもとへ行こうと外に飛び出した。
 途中、彼女はいまの時間であれば仕事をしているはずで家にはいないのではないか、と思い当たった。彼女の店の場所を知らなかったおれは、彼女の家がある区画の入り口から通りをはさんだ向かい側にあるカフェで、彼女の帰りを待つことにした。何時になるのかもわからなかったが、まったく問題はなかった。彼女と会ったら、まず初めになにを言おう、などと考えを巡らせていれば時間が経つのはあっという間だった。
 日が傾きかけたころ、こちらへ向かってくる人影があった。彼女だ。隣には彼女より頭ひとつ半ほど背の高いひとの姿があった。買い物帰りなのだろうか、ふたりで荷物を分けあって、たのしそうに話しながら歩いてくる。区画の入り口の扉をその連れの男性が開けると、まず彼女が入り、そのあと彼がゆったりと扉を閉めながら入り、彼女のあとを追うように奥へと歩いていった。おれはそれを瞬きもせずに見つめていた。気づくと組んだ両手は力が入り指先の感覚がなくなっていた。
 おれは彼女を訪ねる勇気がなくなり、そのままとぼとぼと帰国の途に着いたのだった。

 彼女はとても驚いたようだった。そして、泣きそうな顔になった。
「あのね、たぶん、そのひとはわたしの共同経営者のパートナーだよ。よくふたりでうちに来て、一緒にごはんを食べたりしてるから……」
「ああ、そうだったのか……」
 わかってしまえば、なんてことはない。でも、おれは確かめることはできなかった。
 だから帰国後のおれは、彼女はもう別の未来を選んでいるのだからと、告白されたり紹介されたりして他のひとと付き合ってみた。しかし、どうしても彼女と比べてしまい、どれもうまくはいかなかった。
 それに、もし新しいパートナーができたのなら、母に連絡があってもいいのでは、と自分に都合のいいように考えたりもした。
 おれ自身確実に彼女を理想化しているという自覚はあったが、それを無理に改めることはしなかった。
 そして、今日に至っている。


「……ねえさんから、あなたのことを……あなたがいまでもわたしを思ってくれているかもしれないって聞いたとき、とても信じられなかったの」
 彼女が顔を上げておれを見つめる。表面張力でいっぱいの瞳に吸い込まれそうだ。
「ねえ、ほんとに、わたしでいいの」
「なに聞いてたんだよ。わたしが、いいの」
 おれは彼女を抱きしめた。腕に力を込めると彼女の甘やかな吐息が漏れる。
「すぐには無理でも、おれと一緒になってほしい」
 彼女が顔を上げておれを見つめ、はい、と応えると閉じた瞼から涙がひとすじ溢れた。うれしくてしあわせを噛みしめながら抱きしめる腕にますます力が入ってしまった。

「ねえ、わたしより早く死なないでね。もう大切なひとがいなくなるのはつらいから……」
 しばらく抱きしめあったあと、そう言った彼女は、縁起でもないか、と笑い、そして、そういえば、と続けた。
「こないだね、なんでそんな話になったのかは覚えてないんだけど、ねえさんが言ってたの。女のひとは死んだら、はじめてのひとが迎えにきてくれるんだって。あのひとが、つまりあなたのお父さんがね、きてくれるのなら死ぬのは怖くないって笑ってたんだよ」
「母さん、おやじがだいすきだからなあ」
「それを聞いたときにね、あなたを思い出したの。男のひともそうなら、あなたを迎えにいくのはわたしだなって。たぶん、わたしのほうが先に逝ってるだろうしね」
 そう言って彼女は声を出して笑った。
「ちょっと……そっちこそ縁起でもないこと言わないで」
 慌てて反論したおれを見て、彼女は口元に笑みを残しながら宥めるようにおれの頬に触れた。
「ごめんごめん。でもね、その役目は誰にも譲らないよ。ほんとにいましあわせなの。もし離れなくちゃいけなくなっても、残りの人生ひとりで生きていけるってくらい」
「おれはもう離すつもりはないよ」
 頬に触れている彼女の手に自分の手を重ねた。
「うん、ありがとう。もうあなたからはたくさんもらってる。なにをしても返せないほど。だから、この先どんなことがあっても、わたしはすべて受け入れるからね」
 彼女はそう言って微笑んだ。
 そこにかつての儚げな彼女はもういない。きちんと自分の生き方をしている自立したひとりの人間だった。
 おれに心変わりするつもりはないし、さきほど、もう離すつもりはない、と言ったのも本心だが、これ以上はなにを言っても彼女は聞き入れてくれないだろうな、と思った。それならば、このままなにも言わず、ずっとそばに、ずっと一緒にいよう、そう心に誓った。
 ふたりの未来は始まったばかりなのだから。

おしまい

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