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暑熱順化

 コロナ禍以降、基本リモートワークだったが、ひさびさに出社する今日は、梅雨時期特有の蒸し暑さに加え、運動不足と満員電車が重なったからか、具合が悪くなってしまい、会社がある駅にたどり着く前に電車を降りてしまった。
 ホームに設置してあるベンチに間に合わず、その場にしゃがみ込んでいったん落ち着くのを待つ。幸い急行が止まらないこの駅は比較的空いており、ほかのひとの迷惑にはなっていない、と思う。
 暑いはずなのに寒い感じがして、のどが渇いている。かばんに入れた水筒を取り出そうとするけれど、身体に力が入らない。これは、まずい……きっと……
「熱中症だな」
 そう、熱中症、と思ったことが直接耳に聞こえてきて驚き、顔をあげるとそこには見知った同期の顔があった。思いっきり眉間に皺が寄っている。
「おはよ」
 その顔に似合わないやさしげな声で挨拶をして寄越した。まずいところを見られたな、と思いつつ、へらりと笑って挨拶を返すと、腕をつかまれた。見た目と違って熱いんだな、などと思いながら白くて筋張った手を眺めていると低い声が鼓膜に響く。
「そこ、じゃまだから」
 そう言うと、近くのベンチまで連れて行ってくれた。電車が出発したばかりのホームのベンチには誰もおらず、並んで腰掛ける。ん、と手渡されたのは、よく冷えたスポーツドリンクだった。ご丁寧にキャップも緩めてくれている。礼を言って勢いよく飲むと、一気にのどが潤い、少し元気が出た。
「あー、生き返ったー」
「無理すんな、まだ顔色悪い」
「ん、でもだいぶ楽になったよ。大丈夫だから、先に行って、ね」
「甘くみたらだめなんだって。なんなら少し横になってもいいから」
「でも、遅刻する」
「今日おれは急ぎの案件ないから、気にすんな」
「ありがとう……」
 さすがにホームのベンチで横になるのは憚られたので、肩をかりて目を瞑る。ふだんなら意地を張ってこんなことはできなかっただろうな、と思っていたより弱っていたのがわかる。気のおけない同期であり、仕事ではライバルみたいなところもありつつ、密かに想いを寄せる相手がいまここにいてくれることに感謝した。

 しばらく休んでいると具合がよくなってきた。ふとあまやかな香りが鼻をくすぐり、みずからの状況を思い出して我にかえった。
「あっ、ごめんっ!」
「ん。大丈夫?」
「うん、大丈夫、と思う……ありがとう」
「もうだいぶ空いてると思うから、次のに乗ってくか」
「あ! 打ち合わせ!」
 ひさしぶりに出社する理由を思い出し、ばっと立ち上がると、立ちくらみがしてよろけてしまった。また腕をつかみ支えてくれる。やはり手のひらは熱い。
「おい、落ち着けって」
「ご、ごめん」
「打ち合わせ、おれも一緒。だから大丈夫」
「え、」
「ふたりで遅れるって連絡しといたから」
「なっ、急ぎはないって」
「まあまあ」
 慌てて離れようとするのを、くつくつ笑いながら見てくるので、そのまま顔を逸らして電車を待った。

 会社の最寄り駅までは三駅。ラッシュ時を終えた車内は予想通り空いていて並んで座れた。
「はじめ見間違いかと思った。おまえがいるわけないって」
「そっか、あの駅使ってるんだったね」
「近寄ったらやっぱりおまえだったからさ」
「満員電車甘くみてた……」
「つーか、在宅ばっかで運動不足なんじゃねえの」
「ずっと家にいるから、夏の暑さについてけてないだけ」
「ああ、まだ夏の初めだからな」
「今日の打ち合わせ次第ではしばらく通勤しなきゃかも」
「いいんじゃねえの、もう帰りに飲みに行ったりもできるし」
「そだね、ずっと外飲みしてないなあ」
「じゃあ、今日さっそくどう?」
 リモートになる前は仕事帰りに会社の仲間とよく飲みに行っていた。もろもろ解禁になり、出社組は週末になると街へ繰り出しているとは聞いていたが、在宅だったので声をかけられてもなかなか出かける気になれずにいたのだった。
「んー、今日は病みあがりだしなあ」
「んあ、そうだった。ごめん。身体が慣れてからのほうがいいかもな」
「そうそう、遅刻もしちゃってるからねえ」
 少しふざけながら言ったのに、思いのほか真面目な顔つきでこちらを見ているので、びっくりして笑いをおさめる。
「その、今度はさ、ふたりで行きたいんだけど」
 思いがけない台詞に、どきん、と痛いほど胸が高鳴った。でも、素直じゃない口が勝手に喋る。
「え、ああ、今日のお礼に奢るよ」
「そうじゃなくて、」
 少し大きな声が聞こえたと思ったら、膝にのせたかばんを支えている手をつかまれる。あらためて見ると随分大きいし、やはり熱い手だった。
「在宅で会えなくてさみしかったの。おれいま浮かれてんだけど、わかんない?」
 並びで座ったのでよく見えていなかった横顔を見ると、いつもは真っ白な頬がうっすら紅くなっているような……
「熱中症じゃなくて?」
「んなわけあるか」
「そか。考えとく」
 急な展開についていけず、焦って変な返事をしてしまった。
「ん。わかった」
 手をつかんだまま、ふだんの仏頂面が破顔してまるで猫のようになった。たまにしか見れないだいすきな笑顔だった。
 電車はもうすぐ最寄り駅に着こうとしている。
 この熱さに慣れるのはもう少しかかりそうだ。

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