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秋夜の桜

 本当は随分前から気づいていた。彼女の心がもうここにはないことを。

 彼女が初めておれの部屋に来たのは春だった。川沿いの桜並木の脇に建っているこじんまりとした五階建てのマンション。その三階のおれの部屋の窓からは満開の桜とよく晴れた青空が見えていた。
「わあ、眺め最高だね」
 彼女は部屋に入るなりそう言ってベランダへ飛び出していく。
「ん、いいよな。去年内覧に来たときにはもう葉桜だったから、おれも初めてなんだ」
 ふたりでベランダに立ち、いまを盛りと咲く桜をしばらく眺めていた。

 彼女とは一年ほど前に仕事で知り合った。何社かで合同で進めるプロジェクトに参加した際、一緒のチームになったのがきっかけだった。
 おれと彼女の提案はいつも対立して、そのたび意見を戦わせていた。そのときによって、おれが採用されたり彼女が採用されたりして、最終的にプロジェクトは成功した。
 打ち上げの席、戦友どうしとして祝杯をあげた。
「おつかれさま。もうきみとやり合えないと思うと少しさみしいな」
「それはお互いさま」
 いつも真剣な顔ばかりだった彼女のくしゃっとした笑顔にすっかりやられてしまったおれは、その高揚感の流れで彼女を誘い、付き合いを始めることになった。
 プロジェクトの成功で、ふたりともそれぞれの会社でより責任のある立場となったが、忙しくても会う時間を捻出するため彼女がおれの部屋によく来るようになり、ほぼ半同棲状態になった。

 ベランダから見えていた川沿いの桜は散って葉桜になり、梅雨に濡れる葉も美しかった。真夏には青々とした葉の向こうの花火に盛り上がった。
 だんだん秋が深まって桜の葉が色づき始めた頃、ふたりの間に冷たい風が入り込んできた。彼女は仕事を理由に自分の家に帰ることが多くなっていった。

 今にして思うと、お互い自分の意見をなかなか曲げないふたりが長いことうまくいくわけがない。また、仕事はともかく恋愛についておれはあまり積極的ではなく、どちらかといえば受け身なほうだった。それも彼女には物足りなかったのかもしれない。
 おれはおれなりに彼女を愛していたけれども。

 彼女がおれを呼ぶ声がすきだった。
 大きく開けた口を手でおさえもせず、顔をくしゃくしゃにして大笑いするところがすきだった。
 表情をくるくる変えながらたのしそうに話すところがすきだった。
 考えるより先に動いてしまうところがすきだった。 

 なにより彼女を想うおれ自身がすでに過去形になっているのに気づいてしまった。しかしおれは今日も、またね、と出て行く彼女の背中になにも言えずにいる。
 窓の外、月明かりに照らされた桜の木が、落し忘れた葉を数枚残しておれを見ていた。

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