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バルザックは分かってくれるかも / 「大人は判ってくれない」

戦後まもなくイタリアではネオレアリズモが花開き、アメリカではフィルム・ノワールがたくさん発表され、遠く日本で黒澤明や溝口健二、小津安二郎たちが世界から賞賛される映画を撮っている様を見て、"文化の国"を自称しているフランスの映画人たちは焦った。1950年代の後半になってようやく、最後発ながらフランスで"新しい波"すなわちヌーヴェルヴァーグと呼ばれる映画が登場した。その代表作とされる映画が、1959年のフランソワ・トリュフォー監督の「大人は判ってくれない」(原題は Les Quatre Cents Coups)である。
この映画は13歳のアントワーヌ・ドワネルという少年を主人公にした、トリュフォー監督の半ば自伝のような映画なのだが、本作をじっと見ていると、何がフランス映画にとって"新しい"ことだったのか分かるようになっている。
物語の前半は、特に何か事件が起きるわけでもなく、いたずら好きの少年アントワーヌが学校で教師に怒られたり、夫婦仲の冷め切った家庭で居場所なく過ごし、友人とパリの街を散策する様子が描かれる。こうした何気ない日常をそのまま撮影していく手法はネオレアリズモの影響を強く受けている。
そのうちにアントワーヌはバルザックの「絶対の探求」をベッドで読み、気に入ったのか学校に提出する作文として小説の文章を丸ごと剽窃し、教師に激怒されるというエピソードが挿入される。僕はこのシーンを見て、ヌーヴェルヴァーグとは La Comédie humaine (人間喜劇)を映画でやろうとしたんだな、と思った。バルザックの小説のように、いろんな人たちを脇役としてではなく主役として観察し、日常のあらゆる場面をつぶさに表現することこそ、トリュフォー監督にとって"新しい"映画だったのだ。なお、バルザックについて語ると行数が増えてしまうので割愛する。そもそも、バルザックを読んだことがないのにフランス映画の感想を書くような輩は、味噌汁を飲んだことがないのに和食を語る奴に等しい。
実際にトリュフォーは本作の後、アントワーヌ・ドワネルを登場させてフランスの現代史を表現しようと試み、「アントワーヌとコレット」「夜霧の恋人たち」「家庭」「逃げ去る恋」と、「大人は判ってくれない」の続篇に当たる映画を発表してシリーズ化している。人間喜劇の映画版である。
僕はバルザックの小説が好きなので、トリュフォーのやりたいこともよく分かる。ただ、映像として退屈になるし、どうでもいい会話を見せられていると007でも観ようかなという気になってくる。
少年鑑別所から脱走して海へ行き、カメラをじっと見るラストシーンはフランス映画への挑戦状だろう。こんな映画を撮ったけど、どうだお前ら、という既製品への挑発である。なお、このシーンはノルマンディ地方の海岸で撮影された。上陸作戦が行われた場所のすぐ近くだ。ヌーヴェルヴァーグとは結局のところ、これまでのフランス映画じゃダメなんだという意志のある運動なので、創造よりも破壊のモーメントが強い。
ちなみに、Les Quatre Cents Coups という言い回しはフランス語で"大騒ぎする"とか"次々とトラブルを起こす"などの意味だ。僕なら邦題を「やりたい放題」にするだろう。少なくとも、大人は判ってくれないなんて原題に一言も書いていない。

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