楽しい生活が待っている。 今まで施設で暮らした窮屈さから解放され ようやく自由になれると思っていた。 だけど… いざ母と一緒に暮らしてみると… 施設とは違った種類の窮屈さがあった。 家事は全て私や妹がやり母はお昼まで 寝ている。 毎日、母は行きつけの近所のカラオケ喫茶で 昼食をとり、アイスコーヒーを飲み そこに通う常連さん達と時間を過ごしていた。 夕方帰宅した母は、藤井さんが仕事から 帰ってくるまで再びベッドで寝ていた。 私は、毎日料理を作っていたけど それは、
7年間過ごした場所。 施設を出る日、仲良しだったクラスの友達や 施設の仲間達に見送られ、私はたくさん泣いた。 幼少期の静かで誰とも話せず下を向いて過ごしていた自分はもうどこにもいなくて いつの間にか、明るくてまわりを笑わせる事が 好きな自分になっていた。 「帰りたくなーい」と泣いたのを今でも覚えている。 帰りの車でもずっと泣いていたけど友達や仲間と 離れても施設を出れる喜びは大きくて 私は自由になれると思っていた。 母と暮らす家まで車で2~3時間。 帰宅前
児童養護施設で過ごしたあの頃の出来事を思い出すと、決して伸び伸びと自由に過ごせた幼少期ではなかったと思う。 そして、いつも寂しくて両親の愛情に飢えていた私は、誰にもバレないように小4になっても指しゃぶりをして眠った。 自分には、別の両親がいて私は、とっても深く愛されて幸せいっぱいな暮らしをしていて… とそんな空想をよくしていた。 「母はもう死んでしまった」…とそう 思い込んでいた方が気持ちが楽だった。 施設で暮らして4年が過ぎた頃、 行方不明だった母から突然電話がき
母がいなくなり兄弟姉妹で暮らしていた頃 児童養護施設に入る前の転校した小学校で 担任になった先生は、名前も顔も忘れてしまっ たけれど若い男性の先生だった。 私達の生活がどんどん荒み、私が学校を行ったり 行かなかったりしていた時、何度か先生が家に来てくれた事があった。 先生は、私の家の生活状況を知り色々気にかけてくれていたと思う。 ある時、学校行事で遠足があって お弁当も水筒もお菓子も持たずに参加した私。 クラスで私に話しかける子は誰もいなく 私も誰かに話しかけること
私が小4の頃、施設に新しい子が入ってきた。 安奈という名前で私と同じ学年の子だった。 (当時の施設では、何ヶ月かに数人新しい子が 入って来ていた) 安奈はとても明るくておしゃべり好きで 親しみやすい雰囲気を持っている子だった。 同じ歳だったし先生達にも安奈と 仲良くするように言われ、私は安奈と 一緒に過ごすようになった。 ある時安奈は、自分が施設に入った 理由を教えてくれた。 安奈が赤ちゃんの時(生後半年頃) お父さんの運転する車で事故に遭ったこと。 助手席にお母さん
毎年春になると、中高生達が施設を卒園する。 7年間施設で暮らしてきた私にとって 春は何よりも寂しい季節だった。 卒園前は施設で「お別れ会」をする。 炊事のおばさん達がご馳走を作ってくれて この日は先生達も一緒に食べるのでいつもの 食堂ではなく学習室(食堂より広かったから) に全員集まった。 園長先生の挨拶と卒園生達へ贈る歌を全員で 歌ったり、カラオケを歌ったり…。 いちばん寂しくて悲しかったのは… ずっとそばに居てくれた姉が卒園する時だった。 5つ上の姉に、私は
みんなが寝静まっている真夜中に、 どこからともなく音楽が聞こえてきた。 テレビは消してあり聞こえるはずはないのに… 私は恐ろしくなって耳を塞いだ。 ある時は、私の耳元で5~6人の子どもが 騒がしくしている声が聞こえる事もあった。 その時も真夜中だった。 私は自分の頭がおかしくなったと思った。 その事を誰にも言えず相変わらず 眠れない夜が続いて私の発作も頻繁に 起こるようになった。 そして私は、とうとう施設の先生に 近くの内科に連れて行かれた。 内科の先生は、辞
毎日、夜が来るのがこわかった。 みんなが寝静まった時間でも私は全く眠れず…。 深夜1:00~2:00の間まで起きていて 数ヶ月睡眠不足が続いたと思う。 私は毎日「死」の恐怖を感じながら過ごしていた。 日中でも「自分は死ぬんじゃないか」と 考えていた。 だんだん笑うことも少なくなり学校や 施設でも無口になり…。 だけど頭の中の「死」に対するお喋りは 止まらなかった。 毎日がこわかった。 一体何がそんなにこわいのか 自分でもわからなかった。 そのうち、呼吸が苦し
施設での生活から半年が過ぎた頃… ある出来事がきっかけで私は夜眠れなくなった。 低学年だった私は夜8時に就寝。 同じ部屋の年下の子は、すぐに眠ってしまい 私もしばらくしてウトウト…。 完全に眠りに入る前にそれは起こった。 突然体が動かなくなった。 横向きになっていた私の背中に何かが しがみついてくるような感覚があった。 息ができなくて苦しくて… 私にしがみついている「何か」は、 ずっしりと重く、その重さで私を 沈めようとしているように感じられた。 数秒なのか数
7年間の児童養護施設での生活は 色々な事があり過ぎて全ては書き きれないので鮮明に覚えている 出来事だけを書きます。 施設での暮らしは、戸惑うことばかりだったけど 母がいなくなり兄弟だけで暮らしていた環境より もずっとずっとまともな生活ができた。 そしていつの間にか施設でのスケージュールも 当たり前のように自分の役割をこなし、 少しづつ集団生活に馴染んでいった。 窮屈に感じながらもそれなりに 楽しく過ごせていたと思う。 今でも忘れられない怖かった出来事… ある夜の運動
午後、小学生や中学生達が学校から帰宅し、 私達を見つけて数人の子達が物珍しそうに そばに駆け寄ってきた。 何を話したのかは覚えていないけど… おやつの時間になり、中学生の女の子が私に おやつを取りに行く場所を案内してくれた。 その日のおやつは、ポテトチップス一袋。 一袋のポテトチップスがまるまる自分の 分だということにとても驚いた。 (その日がたまたま豪華なおやつで普段は 自分の名前が記入されている小さな白い紙袋に かりんとうや飴が入っている質素なものだった) 男
ほんの週数間過ごした児相から 児童養護施設へ行く事が決まった私達。 児相での最後の夜、仲良くなった児相の仲間と 遅くまで起きてみんなでお喋りをした。 次の朝、施設の先生が車で迎えに来たのか 児相の職員の車で向かったのかは覚えていない。 これから向かう「児童養護施設」という 場所がどんなところなのか…? ただじっと車の窓に映る景色を眺めながら 不安な気持ちで児童養護施設へ向かったのを 覚えている。 そんな中でも心強く感じられたのは、 兄弟5人でいることができたから…
知らない場所。知らない建物。 知らない子ども、大人達…。 食堂のような場所でみんな一斉に 「いただきます」をする。 一体ここはどこなんだろう? 学校ではないけど学校みたい。そこには、 小学低学年から中学生ぐらいの子ども達 がいてみんな一斉に私達の方を見ていた。 ちょうどお昼の時間帯に私達はそこに 連れて来られて、訳が分からないまま、 自己紹介をされた。(何となくそんな記憶が…) 当時、そこがどんな所なのか、わからず ただ不安しかなかった。 児童相談所とは? その役
今住んでいる家を引越し、叔母さんが私達の 生活を見てくれるという形で種違いの中学生の 姉と中卒したばかりの兄と私達4人兄妹(6人) でとても古い2LDKのアパートに移り住んだ。 (表向きだけで実際は叔母さんが私達の アパートに来る事はほとんどなかった) お風呂はあってもドアがまともに開かず 浴槽内も壊れていて使えない状態だった。 新しい学校に転校し、友達もできて 最初の頃はそれなりに楽しかったけど… 私達の生活はどんどん酷いものになっていった。 お風呂がないアパートで
数日間かけて少しづつ少しづつ母とお父ちゃんと呼ぶ人は、2人で荷造りをしていたと思う。 「家の物が少しづつ減っていた」と 後で姉が話していた。 ある時、姉と弟が風邪で学校を休んだ。 2人して熱を出して… その日、学校から帰宅した私は何となく家の中の雰囲気が変わっていることに気づいた。 姉、弟、そして叔母さん(母の姉)がいて 姉は泣いていた。(妹がいたか覚えていない) 「ママがいなくなった」 姉のその言葉を聞いて私は… 心の中で「やったぁ」と呟いた。 母もお父ちゃ
リカちゃん人形が欲しかった。 自転車も欲しかった。 当時流行っていた「ゴム飛び」の白いゴムも 欲しかった。 同じ年頃の子達が持っている物は 何一つ持っていなかった私。 ある日、私を含め友達3人で学校の グランドでゴム飛び遊びをしていた。 (きっと学校が休みの日だったと思う) 友達2人が「トイレに行きたい」と言って 私1人、友達が戻って来るのを待っていた。 その時、友達のゴム飛びのゴムがどうしても 欲しくて… ズボンのポケット… ではなく下着(パンツ)の中に隠し