〈中野剛志 著[世界インフレと戦争]恒久時経済への道 に炙り出される 状況-2 2024下半期〉
貨幣の概念
ところでこの本の中で中野剛志がまず経済学の専門家として、最も言いたかったのは、現在までのアメリカや日本の経済政策のどこに間違いがあり、なぜそうなったのか?というその理由に関するものだった。中野によれば、それは現在までの多くの行政担当者が従っていた主流派経済学の貨幣観であったし、あるいはそれは金融資本主義下の貨幣観であり、もっと具体的な細部に突っ込んだ言い方をすれば、貨幣の流通という側面での貨幣観と言ってよいだろう。一言で云えばこのことは、〔貨幣プール論または貸付資金説〕という言葉で、言いあらわされている。即ち市場には何処かに、ある一定の貨幣(お金)量がプールされており、それは例えばどこかの企業が資本投資のために、銀行にお金を借りにいった場合、銀行は必要な貨幣(お金)をそのプールから取り出してその企業に融通(貸付)する、というイメージになるだろう。あるいは日本は国民の預金の量が大きいから、それがあるうちは財政破綻しないが、預金者がそのお金をおろしてしまったら、一気に財政は傾き、国家経済は破綻するのだ、というまことしやかな風説をときどき聞くことがあるが、これも同様に、前述した誤った貨幣観がもたらした見てきたような嘘である。ではわたしたちの社会の現実に見合った貨幣の誕生の仕方やその働きとは一体どういうものだろうか?わかりやすい言い方をすれば、お金は誰かが銀行に必要な額を借りることによって、生まれるのだ。銀行は借り手がやってくると、その借り手が借りたお金を返却できる能力があるかどうかを、調べる。これを与信調査と言うが、これにより銀行が、借り手の返済能力を認めれば、通帳に借り手が求める額を印字する(データとしてパソコンにキーボードで打ち込む)だけである。その印字された金額は、その瞬間にこの社会に新たに生まれてくるのである。もちろんその貸し出し額は、銀行が、その額を妥当だと判断すれば、1000万円でも1000兆円でも可能である。
要するに【お金=貨幣】は、はじめに何処かに存在するわけではない。繰り返しになるが、この借り手が「生活手段として何かを生産するために」、ということは、「なんらかの需要を満たすための新たな供給を生むために」銀行に行き、必要な資金を借りることによって、はじめてこの世界に誕生する。これを貨幣の〈信用創造〉と言い、これこそが、経済学の学説として最近よく耳にするModern Manetary Theory (略してMMT)→現代貨幣理論というアメリカ合衆国発信の貨幣概念を定義した学説を理解するための最も重要なポイントである。即ち中野もYou tube などで日々発信を続けている現代経済の気鋭の評論家三橋貴明氏や京都大学大学院の経済学教授である藤井聡氏とともにこの学説を支持している1人だが、決してこの理論は、経済学の学説として机上の空論ではなく、リアルな経済状況の現実的な分析から導き出されたものなのである。そしてこうして誕生したお金の流通の仕方を実態経済の具体例として、簡単に説明すれば、さきほどの〈生産〉は、わたしたちの社会から求められる〈需要〉を満たすために、例えば工場新設の資材やその運輸手段や建設機械などの費用や働き手などの給料などを含む工場建設コストとして支払われ、それらの支払われたお金がそれぞれの人たちの衣食住の必要生活費や読書や絵画鑑賞などの趣味に費やす費用に変わり、わたしたちの社会に還流してゆくものと言ってよいだろう。
それから最後に中野剛志(それは三橋氏や藤井氏も同じ意見かもしれないが)が述べたかった幾つかの重要な政治思想的な観点について言及すれば、まずベルリンの壁崩壊後の世界の勢力地図からロシアが撤退し、アメリカ一極になってからの現在までの過程とその状況から導き出せる日本のあまり遠くない将来に対する危惧である。中野には、すでに日本を筆頭に現在の世界のいくつかの国が、ウクライナVSロシア戦争を皮切りに、また特に21世紀以降の中国の台頭を背景に、第三次世界大戦の入口に立たされている、という認識があるように思える。その原因は、20世紀末からのアメリカ主導の経済社会政策としてのグローバリズムと主に民主党が政治的な外交統治政策として、アジアや中東やヨーロッパの弱小国家に押し付けてきた(覇権主義的な)リベラリズムだと主張しているのである。ここでは、グローバリズムと(覇権主義的な)リベラリズムという二つのキーワードをテーマに、中野剛志の見解を紹介しながら、日本社会の行く末と現在に対してどのような理解をするべきなのか、という当為があれば、そのこととその是非について、やすだの思うところを述べてみたい。
グローバリズムとリベラリズム
中野剛志は、今まで二度世界をグローバリズムが席巻してきた、と書いている。
彼が挙げているグローバリズムを主導したのは、19世紀の大英帝国と今世紀(20世紀末~21世紀現在まで)のアメリカ合衆国という二つの自由陣営の覇権大国である。そしてグローバリズムとは、地球全体を一つの共同体として、国家と民族の壁を乗り越え、それぞれの言語、慣習、経済状態の平準化を目指す世界平和を志向する思想を指している。だが現実はそのようには決して動かなかったのだ、ということは、過去の第一次グローバリズムと言われた19世紀のヨーロッパの歴史と現在のアメリカ合衆国、そして中国や韓国、北朝鮮を含む東アジアの国々、さらにロシア、ユーロ圏を含む、今まさに閉じられつつある各国家の姿に明らかなように、新たな歴史的な展開としてわたしたちの眼前に現れつつあるのである。そして彼によれば、1970年代後半から始まり、リーマンショックが世界経済に大打撃を与えた2008年にすでに終焉していた(中野の意見)第二次グローバリズムの帰結として、ロシア-ウクライナ戦争とコロナの世界的なパンデミックがある、のであって、決してこの二者がグローバリズムを終焉させたわけではないのである。ここでこのグローバリズムを具体的な経済、政治政策の理論的支柱として背後で支えようとしたのが、19世紀の大英帝国主導のリベラリズムと今世紀の合衆国主導のいわゆるネオリベラリズムである。合衆国のリベラリズムは、いわゆる民主党の政治理念であり、それは最初、台頭する中国を牽制し押さえるために、合衆国主導で行われたTPP[注]が、民主党のオバマの時代に提唱されたことでも明らかである。ただその後共和党のトランプが政権をとり、TPPからさっさと離脱してしまい、その後バイデンになっても合衆国は戻って来ていないが、オーストラリアや日本やインドが、主なき後の広すぎる海域で、アメリカ抜きで軍事的な安全と食料やエネルギーの確保を維持するために、置き去りにされたままである。当時の総理大臣であった安倍晋三氏は、世界平和を志向するこのTPPを会合の席で牧歌的に礼讃している。この合衆国の民主党の政治理念としてのネオリベラリズムは、何故昨今の古くはベトナム、アラブや中東やウクライナの紛争を引き起こしてきたのか?という疑問にたいして、それはアメリカの自由主義思想をそれらの紛争地域の国々に押し付けるからだ、と中野剛志は言っている。また、三橋貴明もことあるごとに、何故リベラリズムが紛争を引き起こすのか、それは自分たちの理想を言語も慣習も宗教も歴史も違う国々に押し付けるからだ、と述べている。彼らに言わせれば、いくら自分たちが進歩し正しい考えを持っていると自負していても、それは単なる傲慢な支配の押し付けに過ぎない、と考えているのである。我が国でもぼんやりとしたぬるま湯のようなある種の雰囲気として、このネオリベラリズムが、1970年以降のマルクス主義的な左翼思想の荒廃と退潮を契機として、社会に蔓延していったと考えてよいのかもしれない。中野剛志は、このダメになった、また戦後の日本社会を腐敗させた左翼思想の終焉をおそらくそのように認識している、と思われる。マルクス思想の政治的な帰結の現前が、ロシアや中国のような強大な管理国家社会になってしまったことを指して、『何故いつも歴史は理念の失敗のように現れるのか?』という戦後最大の思想家のある疑念に対して答えなければならない時が、ようやくやって来たのかもしれないのである。
注:[TPP(環太平洋パートナーシップ)とは、アジア太平洋地域でモノやサービスの貿易自由化を目指す国際協定。
TPPの主な内容は次のとおり。
・モノの関税だけでなく、サービスや投資の自由化を進める
・知的財産、金融サービス、電子商取引、国有企業の規律など、幅広い分野でルールを構築する
・投資ルールの強化、通関手続の迅速化などのルールを定める]