書を読みながら、街に出る ─移動と学び


かつて寺山修司はこう言った。

「書を捨てよ、街に出よう」

だが、断る。

書を読みながら、街に出るのだ。

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高校生が受験生と意識を変えんとする2年生の冬から3年生春にかけて、目に見えて増えるものがある。


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プラスチックの書類ケースである。

受験生は、コンセントのようなマークがついたリュックを背中に背負い、片手にはこのケースを持って登校するのが日常風景だった。

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かくいう自分も、お得意の流行り物ミーハーからか、流行を感じるや否や最寄りの東急ハンズへ爆走し、ハンズを出てすぐわざわざリュックの中身を移し、さも駅の構内がレッドカーペットであるかのようにこの半透明で工業的なバッグが、街一番のおしゃれグッズであるかのように、ブンブン振り回して歩いていた。


なぜこのようなプラスチックの無味なケースが、受験生に急に使われ始めるのか。その流行源は何なんだろうか。

ただ手持ちのバックが欲しければもっとオシャンなトートバックや手提げ袋を用いれば良い。街中で半透明なプラスチックバッグとTHE NORTH FACEのトートバッグを比較させれば99%の人々がTHE NORTH FACE のトートバッグを選ぶであろう。

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それでも受験生がプラスチック容器を用いたのは、半透明なプラスチックが自己顕示欲を満たす容器となっていたからだ。

もっとわかりやすく言えば、「手持ちの参考書からどれが一番強そうな参考書かを考え、一番強い面を周りに向ける意識を常に絶やさず予備校内や学校を闊歩する」ために使われていた。

おかげでバッグには「東大英単語熟語 鉄壁」「文系数学の良問プラチカ」といった対して使い込めてもいないのに一流と言われる参考書ばかりが入っていたのだった。友達のバックにも「鉄壁」は大体入っていた。

そう、この小さなA4サイズほどのバッグで、僕らは何の価値もないデュエルをしていたのだ。誰が敵かもわからない、戦争と例えるには少し生温すぎる大学受験の中で。


もちろんそんな虚栄はすぐに打ち砕かれる。クラスの隣の席で僕に常にそのバッグを見せつけられるという苦行に晒された女の子は、その中身には一瞥もくれず前の席に座る友人との会話に励んでいた。

彼女はトートバックすら持たず、アディダスの小さいリュック一つで登校していた。実にミニマルで可憐だった。

彼女は推薦で慶應に合格し、僕は浪人した。



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移動時間は活力の源?

閑話休題。もはやわざわざ寺山修司を引用したかも意味不明なくらいの脱線ぶりですが、プラスチックケースの話と寺山修司へのツッコミの共通ポイントは「移動」にあります。(なんならそもそも寺山修司をほとんど読んだことがありません。申し訳ありません。)

ところでプラスチックケースの行方はというと、さすがに手に持っているだけあって、通学時間にそのプラスチックケースから参考書を取り出し、毎回勉強していました。そのケースを机として書き物をすることもしばしば。

田舎に片足を突っ込んでいるような地元に住んでいた自分の往復2時間以上の通学時間には、スマホゲームか読書、勉強くらいしかすることがありませんでした。それだけ馴染み深く、中高浪大と存在していた「通学」時間でしたが、それが突然途切れた時期がありました。

それが、昨年の4~7月、コロナの第一次緊急事態宣言下の状況においてです。

コロナ禍でオンライン授業でしか学校に通わず、ほぼ家に籠もって自粛していた2020年4~7月に読んだ本は、動画編集の本わずか1冊でした。もっとも本を読み学習しそうな自粛期間であるのに。

一方で、通学時間が存在した2019年の10~12月は10冊以上は優に読めていました。

そして、コロナ禍でも徐々にカフェなどが営業を取り戻してきた時期からカフェ通いを始めたところ、また本を読む回数が増えました。

そこで、この通学、あるいは通勤という「移動」時間は、実は勉強並びに読書をするにおいて大切な時間になっていたのではないか、ということを感じるに至りました。


今の通勤時間に対する(意識高い系)解釈の移り変わりとしては

コロナ前:「通勤時間を無駄にせず活用するべき」
        ↓
コロナ後:「オンラインで通勤時間がなくなり、可処分時間が増えた。活用の幅が広がり喜ばしいことだ」

といったものではないでしょうか。

オンラインで通勤時間がなくなったことはメリットとして捉えられがちです。確かに、始業時間ギリギリまで寝ることが可能で、会議が終わればすぐに寝転がって仕事を続けられる職住一体の生活はとても便利です。

一方で通勤時間、および「移動」時間というものはそんなに簡単に失われて良いものなのでしょうか。

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というのも、古来から人間は移動を主として生きてきた人間です。

この夏読んだ『暇と退屈の倫理学』という本からかじった内容ですが、
人間の歴史は、生きるために獲物や食物を探して移動しながら生活していた狩猟採集社会から、食物を栽培し、家畜を養う農耕社会へと転換し、1つの場所に定住した農業革命を経て人口が急激に増加し、技術が飛躍的に発達したという流れを辿っています。

しかし、この農耕社会に転換してからの時代は人類全体の流れから見ればちっぽけな時間で、「移動」をメインとして生きていたしていた時間の方がずっと長いわけです。

定住により移動をしなくなって良くなった時間は余暇の時間として与えられたわけですが、その時間を活用して「旅行」という移動行為を行ったりする人間が、そこまで移動を捨て切れるとも思いません。やはり人間にとって「移動」は一つの重要な活動ではないかと思うのです。

そして、その「移動」が果たす役割の一つとして「学ぶ」という行為があるような気がしてならない気がするのです。

見慣れた場所を離れれば猛獣や自然に襲われるリスクは高まります。しかし、そこにあえて足を踏み入れることで新たな食料として植物や動物を発見したり、魚介類が豊富にある場所を見つけたりすることができる訳です。

『進撃の巨人』で、アルミンやミカサら調査兵団が、生まれて初めて海を見て、それから島の外の世界のことを認識するようになったように、外の世界を探検することには「発見」そして「学び」が付き纏います。

もちろんインプット・アウトプットの違いはありますが、足を止めて、机に向かってノートを取りながら本をじっくり読んで「学んでいる」姿は、なんだか少し「変」なのかも、と感じ、「書を携え、読みながら」街へと向かった夏の思い出でした。

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