映画『花様年華』
2000年/製作国:香港/上映時間:98分
原題 花様年華 英題 In the Mood for Love
監督 ウォン・カーウァイ
予告編(海外版)
STORY
1962年、香港。
男(チャウ)は新聞社に勤める、編集者。
女(チャン夫人)は商社に勤める、社長秘書。
引っ越しにより、偶然アパートの隣室に住むこととなった「互いにパートナーを持つ」男女が、それぞれのパートナー同士の情事に気付いた時、予期せぬ恋の炎が、せつなさと悲しみを共有する2人の中に静かに、発火する・・・
※「花様年華」: 「満開の花のように、女性が最も美しく咲誇る時」の意
レビュー
「覗き見」するようなカメラワークに終始ドキドキし続ける、男と女の、大人の記憶。
家の窓|ω・`) 女 (*´-ω-`) 🕗
階段の下|ω・`) ⬆ 🚶♀️ 🚶♂️ 🕙
レストランの隣席|ω・`) 🧑🧆🍽🥩👧 🕣
タクシー内|ω・`) 🚖🧑👧💞 🕚
廊下|ω・`) 🟥👧🧑🚪 🕒
人気のない裏道の片隅|ω・`) 🌁💡👧🧑 🕘
寺院|ω・`) 男 ( ̄y▽ ̄)|壁穴 🕝
好きなシーンが満載過ぎて、困ります。
男が無言の気遣いで女のステーキ皿にマスタードを添え、女も無言でステーキ肉にそれをつけ、男を見つめながら食すシーンに、欲情し・・・
水色の地に赤いバラの絵柄のチャイナドレスを身に着けた女が、ファイヤーキングのライトグリーンのカップ&ソーサーに納まっている珈琲を、スプーンにて気怠くかき混ぜるシーンに、悶々とし・・・
雨夜の裏道に泣く女の感情とその身体を抱きとめる、男の左手の細やかな気遣いに、しっぽりと揺蕩う・・・
はぁ・・・
いい・・・
どこまでもいい・・・
撮影はクリストファー・ドイル&リー・ピンビン。
歓喜して泣き崩れても良いレベル。
美術・編集・衣装:ウィリアム・チャン。
興奮し空に向かって叫んでも良いレベル。
監督、ウォン・カーウァイの到達点。
「ネタバレ有り」のミニ考察
本ミニ考察は主に、「物語のラストは何故1966年に設定されているのか」、そして「物語のラストは何故カンボジアなのか」というお題を中心に記してみたいと思います。
※上記2点に関しては、「わからない」「カンボジアの部分は不要であった」というような感想を複数回目にしたことがあり、また明確に言及したレビューには(個人的には)出会ったことはありません。
《物語のラストは何故1966年に設定されているのか》&《物語のラストは何故カンボジアなのか》
結論から記します。
まず1966年は中国にて「文化大革命(別名【文化台無し革命】)」が開始された年です。それにより、ひとつの時代は終わりを告げました。と同時に、それはひとつの悲しい時代の始まりでもありました(この出来事は、香港へ移民として渡っていた人々への影響も大きかったに違いありません)。
ゆえにたぶんカーウァイは、そのような激動の時代の流れに、一組の男女の「せつない恋」を重ねて描くことにより「哀愁」の残り香を美しく薫らせ、人々の記憶や感情の中に失われた時代の感触を、一時の儚い夢物語のように届けよう(蘇らせよう)としたのではないでしょうか。
またカーウァイはカンボジアのアンコールワット(仏教寺院の遺跡)をラストに配置することにより、観客の視点を、それまでとは全く別の視点へと飛躍させます(これは時間的にも空間的にも、そして感覚的にも狭い視野から広い視野へと一気に観客を誘う、まさに映画にしか成し得ないダイナミックな視覚表現であると思います)。
そしてそのような表現により観客は、作中にて「時計」等により表現されていた、ある意味矮小化された(都市における日常の)時間の流れとは別の、歴史として刻まれた悠久の時の流れ(過去から現在へと至る大きな時間の流れとその堆積)を対照化して感じることにより、言葉ではなく感覚により「過去」、「現在」、そして「未来」とに深く思いを巡らせることとなり、最終的にはこの作品の様々なシーンを忘れることの出来ない体験として記憶することとなるわけです(音楽も含め「繰り返し」等や「ウロボロス」のイメージを多用するのも、体験としての記憶を強化するためと考えられます)。
本作は、「1966年」の「カンボジアのアンコールワット遺跡(「諸行無常」を感じさせます)」にて終わることにより、忘れられない残り香(哀愁)と深み(色気)を帯び、さらには古典となるために必須の普遍性までをも獲得するに至ります。
ですから「1966年」の「カンボジアのアンコールワット遺跡」にて幕を閉じることは、本作にとって非常に重要な意味を持つ「必須事項」であると言えるのです。
というわけで以上が、表題に関する短く纏めた結論となります。
以下は、上記した結論に関係していそうな細かい部分の考察や、個人的に本作の好きな部分を、思いつくままに記してみたいと思います。
《服装について》
本作では男と女がスーツとチャイナドレスを執拗に着用していますけれども、それは何故なのか。
まず、チャイナドレスに関する以下の記事をご覧ください。
「文化台無し革命(文化大革命)」にてチャイナ服がどのように扱われたかということを知ると、本作にて描かれた時代へのカーウェイ監督の眼差しや思い等を垣間見ることが出来るような気もしますし、人民服の存在を考えると、男が着るスーツに関しても、それまでとその後の歴史的事象へ思いを馳せることが可能となるように思います。
《色について》
色彩は主に濃い色を巧みに使用することにより(特にチャイナドレス)、印象を際立たせています。
※日本の色名を用いて記します。
「深緋(赤系)」
深緋は刺激的な、燃え上がる恋や愛を連想させる色ですけれども、文化大革命を象徴する色でもあり、中国を象徴する色でもあります。
この作品の赤は、1966年と中国に繋がっているようにも感じます。
「翡翠(緑系)」
赤の補色は青緑ですけれども、翡翠系の緑が多用されているのも、そういう事情によるためではないかと思われます。
ちなみに服と周りの色の配色は、常にチャイナドレスが浮かび上がるように考えられていますから、女のチャイナドレスと赤色(燃えるような恋の炎)は美しく輝き、観客の記憶に鮮烈に、そしてどこまでも深く刻印されることとなります。
「向日葵・山吹(黄系)」
印象に残る使われ方をしており、素敵でした。
レストランでの食事中、女が着ているチャイナドレスは、大きな黄色の水仙の絵柄でした(黄色の水仙の花言葉は「もう一度愛してほしい」「私のもとへ帰って」です。意味深ですね)。
そしてそのような服を着ている女のステーキ皿に、男は「黄色」のマスタードを無言で添えます(この時、男のポークソテーの皿にはケチャップ【赤色】が添えられています。また女のステーキの焼き具合はレアで赤身の色が綺麗。意味深ですね)。
本作の色彩に関しては細かいところまでいくらでも語れますし(「白」「黒」「グレー」の使い方にも感動しましたし、「青系」や「茶系」も素晴らしかったです)、語り出すとキリがありませんし止まらなくなるため、この辺で止めておきますけれども、兎にも角にもウットリとしてしまう程に完璧な仕事がなされていたと思います。
《時の流れと移ろう感情表現》
時の流れと移ろう感情は、時計や男女の表情のみならず、煙草の煙(煙の立ち上る速度等)や、カーテンの揺れ、扇風機の回転、街灯を打つ雨粒、滴る雫が水たまりに描く波紋、流れる雲、等を駆使し・・・、物のデザインや色、スローモーション等、さらには音楽とその歌詞までをも駆使することにより表現されています。
また、スクリーンに映る場所や音楽は変わらないのに、男女ふたりの感情は刻々と変化してゆき、むしろ場所や音楽が変わらないからこそ、それはより鮮明に浮かび上がることとなり、ゆらめき、揺蕩い、戸惑いながらも美しく燃え上がる様を描き出してゆきます。
それはもう身悶えするほどにたまらない演出で、本当に×3、「素敵」としか言いようがありません。
《シャルル・ド・ゴールの1966年カンボジア訪問時の映像の意図》
本作が1997年の香港の中国返還から間もなく制作されていること、また次作のタイトルが『2046』であったことを考慮すると、アジア地域における、西欧諸国の植民地主義への何らかの言及の香りを感じる気がします。
《1966年前夜のカンボジアの歴史について》
・1941年:モニボン国王の死去により、ノロドム・シハヌークが王位につく。
・1945年3月、日本軍がクーデターを支援しフランス支配を終わらせるも、第二次世界大戦の日本軍敗戦により、フランスの支配再開
・1953年11月、カンボジア独立。シハヌークの独裁体制開始。フランス・中国系企業による経済の独占化が進み、農村部を中心に経済が疲弊
・1951年、カンボジア共産党のクメール・ベトミン(ベトナム共産党の指導で作られた組織)が反政府組織として勢力を拡大。
・1963年、クメール・ベトミンのナンバー3「ポル・ポト」が、政敵を暗殺し、第3回党大会で書記長となり実権を握る。
・1964年~65年頃、にベトナム戦争勃発。カンボジアは中国政府と「友好不可侵条約」を締結、軍事援助を受け始める。
・1966年、中国の文化大革命の思想がカンボジアへ流入。ポル・ポト等のクメール・ルージュは文化大革命を利用し「反シハヌーク」、「反王制」のキャンペーンを開始。シハヌークがクメール・ルージュを弾圧。
というような流れであったようです。
それから約9年後には、あの有名なキリングフィールド状態へ・・・
男と女の生きた時代の香港周辺の政治状況は、ふたりの恋の行方と同じくかなり複雑な様相を呈していたことが伺えます。
《男と女に肉体的な関係はあったのか。または、この作品の主題について》
個人的には「100%肉体関係はあった」と見ております。
ですから女の産んだ「子」は、夫との子ではなく、男(チャウ)との子でしょう。
ただその部分や、不倫、情事どうこうという部分は、本作の主題ではないとも感じております。
本作の主題は「ある時代のある場所にて一組の男と女が、どのように出会い、どのように関係し、どのように相手を愛し、どのように気遣い、そして如何にしてその秘密を共有し、悲しみや寂しさに耐えながらも相手を愛し続け、その秘密を守りきったのか。そしてその時々に生まれ、せつなくも濃密に薫った、ふたりの感情」というところにあるのではないでしょうか。
ですからキスシーンもセックスシーンも、本作には不要なのです。そんなありきたりなシーンは描かずとも、抜群のエロティシズムと品位をもって、男女の儚い恋と永遠の愛。そして深い友情と秘密の共有とを描けるのだということを、本作は観る者に示してくれたのでした。
《その他》
・「甘い」「苦い」「辛い」「酸っぱい」「塩辛い」。映像から香りを感じます。これほど香りを感じる映画って、そうは無いように思います(食べ物以外の香りもかなり感じました)。
あと、登場する食べ物には強いこだわりを感じました。
・ラストにて男が囁く遺跡の穴は、女の唇、又は・・・、に見立てていたのかもしれないと思いました。
穴にピンクの花弁を一枚納めていましたゆえ・・・
また後姿の男は、腰をくねらせながら囁いていましたゆえ・・・
※何をささやいていたかは、他のカーウェイ作品を鑑賞すれば、なんとなく想像出来るような気がします。
・「花」自体はあまり登場しませんけれども、「花」がモチーフのデザイン等は頻繁に登場し、色と形と匂いのイメージによる鑑賞後の残り香は、凄まじいものがあります。
色々と「ムンムン」な作品。
・カメラの位置と動き
どのような会話をしているときに、カメラはどのような位置から、どのようにふたりを捉えるか。
そして、どのように動くか。
知的なカメラワークに心酔・・・
・フェルメールやホーホストラーテン等、個人的に大好きな「17世紀オランダ絵画」を感じさせる構図と距離感が無数に有り、そういった佇まい(構図)も、とても美しかったです。
一例 ↓
・地球儀や地図のメタファーってなにかしら・・・
いくつか思い浮かびましたけれども、確信を持てるものは無く・・・
ただ置いてあるようには見えないのですけれども・・・、う~ん。
ちなみに主人公の方向には、ちゃんと中国の盤面が向いていたりします。
※そういえばフェルメールの作品には、地図等が登場しますよね
・男が寺院を去るシーンからラストカットへの流れ、そしてラストカットの画面構成。左から右へと(過去、現在、そして未来を予感させる)カメラがスライドしながらのブラックアウト。
浮かび上がる文字と、その内容。
完璧。
個人的なメモ
『花様的年華』歌詞
花のように魅惑的な年
月のように輝く心
水のように清い悟り
楽しい生活
深く愛しあう二人
満ち足りた家庭
でも急に闇に迷い込み
つらい日々となる
愛する故郷よ もう一度
『Quizas Quizas Quizas』歌詞
僕はいつも君にこう尋ねる
いつ? どうやって? どこで?
すると君はいつもこう答えるんだ
たぶん、たぶん、たぶん
こうして毎日が過ぎてゆく
そして僕は絶望するけど、君はいつもこう答えるんだ
たぶん、たぶん、たぶん
君は時間を無駄にしてるよ、考えてごらん、考えてごらん
それが君の一番の答えなのか
いつも、どんなときでも
こうして毎日が過ぎてゆく
そして僕は絶望するけれど、君はいつもこう答えるんだ
たぶん、たぶん、たぶん
こうして毎日が過ぎてゆく
そして僕は絶望するけれど、君はいつもこう答えるんだ
たぶん、たぶん、たぶん
君は時間を無駄にしてるよ、考えてごらん、考えてごらん
それが君の一番の答えなのか
いつも、どんなときでも
こうして毎日が過ぎてゆく
そして僕は絶望するけれど、君はいつもこう答えるんだ
たぶん、たぶん、たぶん
たぶん、たぶん、たぶん
たぶん、たぶん、たぶん
『Te quiero dijiste』歌詞
※以下、AIによる翻訳に若干手直し
Mun'equita linda(不明。名前?)
金色の髪
真珠の歯
ルビーの唇
私を愛しているか教えて
私があなたを愛しているように
私を覚えていてくれるなら
私があなたを覚えているように
ときどき聞こえる
神々しいこだまが
そよ風に包まれて
語っているようだ
とても愛しています
ずっとずっとずっと
あの時と同じように
死ぬまでずっと
ときどき聞こえる
神々しいこだまが
そよ風に包まれて
語っているようだ
とても愛しています
ずっとずっとずっと
あの時と同じように
死ぬまでずっと
ときどき聞こえる
神々しいこだまが
そよ風に包まれて
語っているようだ
とても愛しています
ずっとずっとずっと
あの時と同じように
死ぬまでずっと
死ぬまでずっと
死ぬまでずっと