『ハムネット』 固定観念を脱却して新しい歴史を創る
北アイルランド生まれの作家・マギー・オファーレルの作品『ハムネット』、英国の劇作家シェイクスピアの家族の物語。
2022年2月5日に日本経済新聞に掲載された冬木ひろみさんの書評、オファーレルはわずかな史実の上に想像の翼を羽ばたかせ謎に満ちたシェイクスピアの妻を魅力的に描いたというところに惹かれ読んでみました。
ウイリアム・シェイクスピア(1564-1616)はストラットフォード・アポン・エイヴォン生まれ、アン(物語ではアグネス)・ハサウェイ(1555-1623)と1582年に結婚しました。当時、シェイクスピアは18歳、ハサウェイは26歳で長女(スザンナ)を妊っていました。1585年には長男ハムネットと、次女ジュディスの双子が生まれます。
アン・ハサウェイにまつわる伝説
アン・ハサウェイに関してわかっていることは非常に少ないのです。シェイクスピアは家族をストラットフォードに残しロンドンに出てほとんど帰ってこなかったことから次のような説が広まっています。
1998年に公開された映画『恋におちたシェイクスピア』でもそのような設定になっていて、既に結婚していたシェイクスピアが、男装して劇団に入ってきたヴィオラに恋し、結婚できぬ間柄と知りつつ、忍んで逢う仲になります。
オファーレルはこれまでの固定観念に囚われず丹念に資料を探り、新たなアン・ハサウェイ像を描いていきました。
オファーレルは、シェイクスピアの作品の中に出てくる薬草や鷹匠術の記述が非常に詳しいことから、おそらくアン・ハサウェイから教わったのではと考えました。自分でも鷹を飛ばし、シェイクスピアの時代の薬草を育てるなどの検証をして、『ハムネット』ではアグネスを薬草の知識をもつ知的な人物として描きました。
若くして亡くなった長男・ハムネット
この物語の特徴の一つは、二人が結婚して双子が生まれるまでの1582〜1586年と、長男ハムネットが若くして亡くなってしまう1596年の二つの時間が交互に出てくる演劇的な展開。登場する人物が同じなので、どちらの時代なのかがわかりにくい部分もありますが、時系列で描くよりも謎解きの要素が出てきます。
ハムネットの死因はわかっていませんが、物語ではペストと設定されています。シェイクスピアの時代はたびたびペストが流行しています。
アレキサンドリアのサルに潜んでいたノミが船員に移り、そのノミが繁殖、イギリスにまで達する描写が詳しく書かれています。ここはフィクションですが、現代のコロナウイルスの流行にも通じていてとても不気味です。
実は最初に感染したのは双子の妹ジュディスだったのですが、妹を救いたいと願ったハムネットが身代わりになってしまいました。
シェイクスピアが登場しないシェイクスピアの物語
もう一つの特徴が、シェイクスピアの登場場面がとても少ないこと、しかもシェイクスピアという名前は全く出てきません。「アグネスの夫」「ハムネットの父」といった、取ってつけたような表現になっています。
ここがすごいところで、ほとんど登場しない人物が、悲劇『ハムレット』に若くして死んでしまった息子の名前をつけたのはなぜかを描いているのです。
犯人は最後にしか出てこないで、事件の動機を究明していく探偵小説のようです。その探偵役がアグネスというわけです。
ここでアグネスが探偵役を務めるには、シェイクスピアと不仲という固定観念を脱却させる必要があります。実際に、シェイクスピアは、ストラットフォードに家族のための家を購入し、晩年はそこで生活していて、客観的に考えれば不仲とは思えません。
そして、お互いに愛していたからこそ、アグネスは『ハムレット』の謎にたどり着くことができました。最後に謎が解ける瞬間は圧巻です。
固定観念を脱却し新しい物語を創る
悲劇「ハムレット」は、今も世界中で演じられていて、この作品を題材とした新しい作品も生まれ続けています。
例えば、2021年に野田秀樹さん作・演出の「フェイクスピア」。ハムレットを含む四大悲劇、シェイクスピアが創り出したフィクションでの言葉から端を発し、現代に実際に起きた事故での言葉に収斂していくなかで、親から子への想いを描いた作品。
マギー・オファーレルの物語を通じて感じた歴史への対峙の姿勢。
少ない史料であっても、固定観念に囚われずに丹念にリサーチすることで、あっと思わせるような新しい物語を創ることができます。それは、過去の新たな解釈にとどまらず、これからの歴史を創る力にもなるのです。