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安部公房「第四間氷期」感想 ───「未来」を考えること
我々は、過去と比較し現在を評価する。ではやはり、我々も未来によって比較される存在なのではないか……。そして我々がその未来を良いと思うか悪いと思うかに関わらず、未来は自分自身を評価する。そこに、我々の主観が介在する余地はない。未来を過去の──部外者の基準、常識で語るのは大きな間違いであり、真に正しい、絶対的な評価とは言えないのである。そうでなければ、あらゆる時代はあらゆる種類の評価を受け、飽和したそれは無価値なものに成り下がってしまう。海にとっての、水のように。
これが果たして肯定的な意味合いを持つか、否定的な意味合いを持つかは分からない。だが、少なくとも、多くの人が考える "ディストピア" とか "ユートピア" とか、妄想した未来を評価する概念が、結局は現在を基準にしている主観的なものでしかないということは確かだ。未来を評価するには未来の視点でなければならない。
例えば男尊女卑の濃い社会に生まれた男が、フェミニズムの発達した未来を目にしたら、どう思うだろうか。女が威張り散らし、男は萎縮し、彼の信じた "男らしさ" は前時代的で格好悪い価値観とされている。悪夢だ、と彼は思うだろう。……だが、考えてみてほしい。この未来は、今まさに日本にある "現在" なのだ。我々は、この現在を受け入れ、幸福だと……あるいは幸福とまでは行かないまでも、不幸ではないと思っているはずである。
無論、自分の信じる未来を求めるのは極めて正当な行為であり、そこに異議を唱えるつもりは毛頭ない。だが、それは必ずしも正しいものではあり得ないのだ。そうして、その主観を取り除いた時に現れるのは、信じていた価値観の崩壊、即ちアイデンティティの崩壊。
作中、終盤で、未来を創造しようとしていた(予言機械を生み出した)主人公が、過去(進化を胎内で停止した水棲人)によって支配された未来(予言)を知る。それは過去による現在への反逆であり、不幸に他ならない。未来を創ることを許されないならば、一体どうして生きるというのか? 過去によって創られる未来など、現在からすれば無価値である。……だが、それはあくまで現在による評価に過ぎない。未来自身からすればそれは幸であり、反して主人公はそれを受け入れることのできない側にあったからこそ、意思を持った未来(自分の人格の予言)によって排除されることになったのだ。
幸も不幸も当人にしか判断できず、つまりは過去、現在、未来を俯瞰した時に見える絶望的な断絶、「独立した無数の時代各々が持つ価値基準の前に、揺らぐ自己」こそが、本作のテーマであり、著者が垣間見た風景なのである。
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