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安っぽい物語に騙されてはいけない 〜アリストテレース「詩学」・ホラーティウス「詩論」のこと

アリストテレースの「詩学」

ギリシア時代の万学の祖アリストテレースと、ローマ時代の哲学者ホラーティウスによる二つの「詩作の極意」が収められている本書。  

「詩」というとおそらく多くの方は近現代詩を思い浮かべるでしょう。しかし本書で語られている「詩」はちょっと違います。  

アリストテレースはまず、「詩作」を三つに分けます。一つ目は、叙事詩と悲劇。そして二つ目は喜劇。三つ目はアウロス笛とキタラー琴による音楽(うん、「なんじゃそりゃ?」って思いますよね。僕も詳しいことは分からないけれど、多分バレエのようなセリフやナレーションのない音楽劇を想像すればいいのではないかと)。  

ま、要するに「物語」的なもの全体を「詩」と呼んでいるのです。

そしてアリストテレースは言うのですね。「詩作とは再現(模倣)である」と。  

では何を再現するのか。それは「人間の行為」なのです。ということは、人間の行為を模倣する表現はすべからく「詩」である、ということになるでしょう。  

要するに、本書、あるいは本書が書かれた時代において「詩」=「物語」なのです。  

詩作が「人間の行為の再現(模倣)」であるとするならば、その再現(模倣)される人間というのもまた、三つに分けられる、とアリストテレースは説きます。

それは、「優れた人」「劣った人」、そして「優れた面も劣った面も持ち合わせた普通の人」です。  

で、だとするならば、最初に詩作の種類を三つに分けましたが、それぞれの再現しようとする対象に適した表現方法があるよね、とアリストテレースは言うのです。  

つまり、「優れた人」を表現しようとするならば「悲劇」がふさわしく、「劣った人」を表現するならば「喜劇」がふさわしい、と。  

じゃあ君が「悲劇」をもしも作りたいとする。ならばまず「悲劇」にはどんな要素があるのかを考えてみよう、とアリストテレースは言います。  

すると悲劇には五つの要素があるのですね。それが「筋(ストーリー)」「性格(キャラクター)」「語法(どんな言葉遣いをするか)」「思想(テーマ)」「視覚的装飾(舞台装置やロケーションのことですね)」「歌曲(BGMや挿入歌)」だと。  

中でも最も重要なのは「筋(ストーリー)」である、とアリストテレースは言います。出来事の構成ですね。  

ではこの構成をどう作ればいいかと言うと、これはもう大事なことは二つしかないんだよ、と。  

それが「逆転」「認知」なのです。  

物語において、どこかで主人公の境遇なりなんなりが「逆転」すること、あるいはどこかで主人公に知らされていなかったなにかが明らかになること(「認知))、できればその両方が同時に起こること。それがなければ、そもそも出来事の連なりは物語にならないんですね。  

たとえば、なぜ「推理小説」が面白いのか、を考えてみるとよいかもしれません。推理小説には必ず「事件(逆転)」があり、その「解決(逆転と認知)」があります。

ね、「逆転」と「認知」が含まれているでしょう? 物語の抑揚、ドラマというのは、この「逆転」と「認知」なのです。  

逆に言えば、僕たち読者が何かの物語を「つまらない」と感じたとしたら、それは作者の技術不足で「逆転」と「認知」を読者に伝えることができていないからか、あるいは僕たち読者側が何らかの理由で作者が仕掛けたはずの「逆転」と「認知」に気づいていないからか、どちらかなのですね。  

さて、そんな感じでとにかくテーマについて細かく分類しながら分析していくのがアリストテレースなのですが、一方、本書の後半に収められているホラーティウスは、どちらかというとエッセイ風に「こういうことはしちゃいけないよ」「こうすべきなんじゃないか」という感じで詩作について語っていきます。  

ホラーティウスの「詩論」

ホラーティウスの「詩論」は論文というよりもむしろその文章の一つ一つがとても「詩的」なので、その言葉の多くが現在では引用句となっているそうです。  

そこで、せっかくなので本書に収められているホラーティウスの言葉をいくつかご紹介しましょう。  

「壷をつくる仕事を始めたのに、轆轤をまわしているうちに瓶ができあがるのはどういうわけか?」

(もし悲劇をつくりたいならそれにふさわしい方法を、もし喜劇をつくりたいならそれにふさわしい方法を取るべきだけど、それができている作者は少ないね)  

「神は介入してはならない、もし救い手を必要とする葛藤が(生じているので)なければ」

(物語というのはできる限り「必然的」であるべきだ。「偶然」というのは本当に最後の手段だよ。物語の序盤から偶然の要素が出てくるようなのはダメな物語の典型だね)  

というわけで、この両書はともにルネッサンスの時代に広く読まれ、古典復興の思想的基盤ともなったのでした。  

物語とは

ところで、「物語」とは、一体なんでしょうか。  

時折、こんなことを言う人がいますよね。「物語なんて、結局は嘘じゃないか。そんなものを読んで一体何の役に立つというんだ」と。それは本当でしょうか。  

アリストテレースは言います。  

「詩人の仕事は、すでに起こったことを語るのではなく、起こりうることを、すなわち、ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で起こる可能性のあることを語ることである」  

そして、もしその能力に自信のないならば、その作者は歴史について語るにとどめなさい、と。

なぜなら歴史は「すでに起こったこと」だからです。必然的に「必然的」にしかなり得ない。

でも、アリストテレースは言うのです。「歴史」について語ること、つまり「すでに起こったこと」についてだけを語るならば、それは決して「哲学的」にはなりえないし、そこに深い意義はない、と。  

「物語的」でない「歴史」のような出来事の連なりは、所詮過去のものでしかないからです。過去に犯した過ちを確認することはできても、防ぐことはできない。

「過去」についてしか語れない人たちは、こんなことを「過去に」言ったし、恐らく「未来も」言うでしょう。

「想定外でした」なんてね。

それはアリストテレース的にはとても「必然的」なことなのだけれど。

最後に

さて、本書は創作をしたいという人にとっては、多くのヒントを得られる「実用書」となることでしょう。そしてまた、物語を「批評」しようとする人にとっても、自分が批評しようとするものが何なのかを知ることはとても重要であるはずです。  

一方で「創作」にも「批評」にも興味がない、ただの読者や観客といった「受け手」であろうとする人にとっても、本書は多くの示唆を与えてくれると思います。  

何でそう思うかって? その理由は二つ。  

一つは、僕たちは誰もが、自分の未来という「物語」をつくらなければいけないから。  

そしてもう一つ。  もしかしたらこっちの方がより重要かもしれない。

それは、僕たちは誰もが、誰かがつくった安っぽい「物語」に惑わされてしまうものだから。

とりわけ政治家や権力者の語る物語はいつだって、ただの「歴史」にすぎないから。

あまりにも「詩」から遠ざかっているものだから。

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峰庭梟
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