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イデオロギー抜きで歴史を語ろう〜ウィリアム・H・マクニール著「マクニール世界史講義」のこと

中公文庫の「世界史」でも有名なウィリアム・H・マクニール。本書は彼が1979年、1982年、1986年に大学の寄付講座で行った講義をまとめたものです。  

テーマとなるのは「フロンティアとはなにか?」ということと、「マクロ寄生とミクロ寄生という視点からとらえた世界史」。  

フロンティアなるものの実態とは

1979年に行われた講義「グレート・フロンティア――近代の自由とヒエラルキー」では、アメリカ人にとってアイデンティティの象徴でもある「フロンティア・スピリット」について考えていきます。  

著者は「フロンティア」を、ある異なった文化を持つ共同体が隣接している時に一方の共同体が優れた技能を持っていて、なおかつ疫学的にも強い場合と限定します。この場合においてのみ、一方の共同体は技能の点において劣っているため侵略され、また疫学的な劣性によって人口が減少してゆくのです。そうすると敗者側の共同体の土地は勝者側の共同体にとって自由に開拓できる土地=フロンティアとなる。  

逆に言えば、たとえ一方の共同体が優れた技能を持っていたとしても、もう一方の共同体が同じ程度の免疫力を持っていれば、文化の侵略は行われえない、ということでもあります。  

しかし、面白いのはここから。一般に「フロンティア・スピリット」という言葉に多くのアメリカ人がロマンを感じるのはそこに「自由と独立」を見るからです。  

でも、実際にアメリカやそれ以外のフロンティアとなった地域についてよく観察すれば、フロンティアに「自由と独立」が保障される場合もまた限定されている、ということ。  

確かにフロンティアでは開拓者が空白となった土地を自由に開拓することができるようになります。しかし、そこでは当然のことながら労働力の不足が生じます。敗者側の共同体の数が減少してゆくのですから。  

そうなると、それを補うためには農奴や奴隷制のようなものを取り入れざるを得ない。

実はそれが「フロンティア・スピリット」というものの現実なのですね。  

そしてそうしたフロンティアもまた、徐々に都市化してゆきます。そうするとその場所はだんだんとフロンティアではなくなってしまうので、開拓者はまた新たなフロンティアを求めて外部へと進出せざるを得なくなる、というわけです。  

とすると、当然その新たなフロンティアでは新たな農奴や奴隷制に似たシステムが採用され……

という話。なんか、めっちゃ怖いですね。

「マクロ寄生」と「ミクロ寄生」

さて、後半は「マクロ寄生」と「ミクロ寄生」をキーワードに世界史が語られます。  

マクロ寄生とミクロ寄生とは生物学の用語です。

ミクロ寄生は人間とウィルスの関係のように寄生体よりも小さなものが寄生体に寄生する場合のこと。

マクロ寄生とはその逆で、寄生体よりも大きなものが寄生体に寄生している状態のことです。  

人間の歴史においてウィルスのような病原菌との共生がキーワードであったことは著者の「疫病と世界史」のほか、有名なジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」などでも語られてきましたが、本書で著者はこの「寄生」というテーマを人間同士の営みにまで広げて考えます。  

つまり本書で語られるマクロ寄生というのは、聖職者や武力を持つ領主のような生産しない団体が生産者である一般庶民に寄生している状態のことなのです。  

そしてウィルスがもしも人間を根絶してしまえば彼ら自身が絶滅してしまうのと同じように、人間の社会における支配層というものもまた、支配する庶民を生かさず殺さずでやってきた、と言えるのです。

ただ、ではマクロ寄生される庶民というのがただの搾取される哀れな被害者なのかというと、実際はそうでもないのではないか、というのが著者の意見です。

税を徴収される、というマクロな寄生を受け入れることで、例えば外部からの侵略から守られるのならば、それは庶民にとって悪くない話であったでしょうから。

そういう視点、僕はフェアだと思います。

イデオロギー抜きで歴史を語ろう

歴史、というのものはこれまでいつも、ある種のイデオロギーによって語られてきました。

「歴史を学べ」と声高に叫ぶナショナリストはもちろんのこと、その逆に民俗学や文化人類学のようなマイノリティから見た歴史を重要視する視点もまた、反ナショナリズム、アナーキズムというイデオロギーでしょう。

著者はそういったイデオロギーとは距離をおいた視点から歴史をとらえようとしています。だからこそ、「寄生」というような生物学の用語で歴史を説明しようとするのです。  

しかし、また一方でそういう「科学的な態度」は結局のところ弱肉強食を仕方のないもの、自然の摂理として受け入れざるを得ないような冷たいものの見方になりがちです。  

著者は言います。  

「過去を前向きに考える歴史家として、ぜひとも言っておきたいのです。人間は、その知性と創意工夫の才によって数多くの問題に取り組んできました。実際には問題をひとつ解消したかと思えば、新たな問題を生み出してきたとはいえ、人間は、ほかの種が成し遂げてきたよりも急速に、大胆に、地球の表面を変えてきたのです。私たちはこういった歴史を踏まえ、失望することなく、人間が、私たちを取り巻く世界からエネルギーを獲得し、欠乏を満たし意図を実現し、成功を収めてきたこと、そのたびに破綻の危険が迫るなかで、どれほどのことを成し遂げてきたかを称えるべきです。」  

人類がその知性、科学技術というものを暮しをよくするためや自らの力を増大するために使ってきたのと同じように、歴史というものをイデオロギーから解放し、もっと引いた目で、ある種の物理的法則のようにとらえることができるとしたら。  

もしそうすることができるなら、僕たちは真の意味で過去を学ぶことによって未来を切り拓くことができるのかもしれない。  

そんなことを思うのでした。

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峰庭梟
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