動物化したポストモダンの行方
先日、東浩紀氏の「動物化するポストモダン」と「ゲーム的リアリズムの誕生」を読みました。
「動物化するポストモダン」は2001年発行ですから今から23年前、「ゲーム的リアリズムの誕生」は2007年発行ですから今から17年前の本です。
だとすれば、「動物化するポストモダン」の発行年に生まれた人はもう社会人になっているし、「ゲーム的リアリズムの誕生」の発行年に生まれた人はもう高校生になっています。
これらの本で書かれていた社会のポストモダン化という現象は、確かにその通りだったのでしょう。たとえば、21世紀になってから急速に広まった概念の一つに「シェア」というものが挙げられますが、これなんかは正に社会がデータベース化したことの象徴なのだと僕は思います。20世紀における情報が誰かから誰かへと与えられるものだったとすれば、21世紀には情報は誰かと誰かの間でシェアするものになったのです。
個人的には、「ゲーム的リアリズムの誕生」よりも「動物化するポストモダン」のほうが面白く読めました。「ゲーム的リアリズムの誕生」については、同著で示されている「ゲーム的リアリズム」や、その考えの元であり同著で多く依拠している大塚英志氏の「まんが・アニメ的リアリズム」自体に僕は違和感を感じます。それは果たして「リアリズム」なのだろうか、と。
「リアリズム」というのは、基本的に普遍的なものを重視する態度のことでしょう。たとえば自然主義というものは科学的であることをその旨としますが、それは科学というものには一定の普遍性があるからです。僕らは誰も、この現実世界に生きている以上、科学法則を無視できない。「俺は空を飛びたいんだ」と強く願って腕をバタバタさせたところで、僕らは空を飛べない。
でも、仮に、世界が何らかの理由で「暗黒の中世」と呼ばれたような時代になったとしましょう。そうなったとしても、やはり現実は科学的なものです。
そして中世のヨーロッパで現実よりもキリスト教の教えのほうがより重要視されたように、現実よりも何か別のものが重要視されたり優先されたりする、「それでも地球は回っている!」と叫ばなければならなかったりする、というのはいつの時代のどの場所においても往々にしてあるのだと思います。
なぜなら、そういう気質(現実よりも別のものを重要視する気質)の人というのは、どのような時代のどのような場所においても必ず一定数存在するのですから。で、状況によってはそういう人が目立つ時代もあれば、目立たない時代もある。第二次大戦中の日本だってそういう状況だったわけでしょう。
でも、だからといって、中世のヨーロッパや戦時中の日本でキリスト教や皇国史観が「現実」であったわけではない。キリスト教や皇国史観という「ロマン」に誰もが溺れていたというだけです。それでも現実には神は死に、日本は戦争に負けたわけです。
その意味で言えば、この頃に東氏や大塚氏が言っていた「ゲーム的リアリズム」や「まんが・アニメ的リアリズム」というのは、むしろ「ゲーム的ロマンティシズム」であり「まんが・アニメ的ロマンティシズム」なのではないでしょうか。
というのは、本書で示されている「ゲーム的リアリズム」や大塚英志氏の「まんが・アニメ的リアリズム」というのは、実は結局のところゲームやまんがやアニメが好きな人が「それわかる〜」と思うこと以上のものではないからです。
僕らは現実には食パンを咥えて「遅刻遅刻~」と言いながら走っている女子高生に出会うことはないし、現実で失敗したときに「オッケー、じゃあもう一回やり直すわ」ということもできない。そんなことわかってる。そんなのは「リアル」じゃないことなんて百も承知のうえで、それで僕らはアニメやまんがやゲームに耽溺しているのです。
アニメを見たりまんがを読んだりゲームをしたりしている人における現実とは、あくまで「アニメを見たりまんがを読んだりゲームをしたり」していることにすぎません。そういう人の数が増えることで「分かるわ〜」が一般化したとしても、それは現実には何の意味もない。
僕は思うのですが、オタクというのは、多分本質的に現実よりも幻想や夢や欲望を愛するロマン主義者なのだと思うのです。で、別に、ロマン主義者であること自体は、決して悪いことではない。なぜなら、現実なんて基本的につまらないものなのですから。
ただ、ロマン主義者が自らのロマンを「いや、これこそがむしろ現実なのだ」と言い出したとき、ロマン主義者はピエロになってしまう。ただピエロになるだけなら多分それは幸せで、そうでない場合は何か悲惨なことが起きてしまう。たとえば、オウム真理教事件のような。あるいは、自らをジョーカーに模した男の起こした事件のような。
まあでも、ロマンと現実の関係は複雑です。さっき僕は科学を現実だと言ったけれど、科学だってある意味ではロマンだったりする。
それに、20世紀に終焉したといわれている「大きな物語」も実は一つのロマンだったし、それ以前もあったしそれ以降もたくさんある「小さな物語」もまた、小さなロマンなのだと思います。
だから、そもそもリアリストとロマンチストをわけること(リアリズムやロマンチシズムのどちらかだけを敢えて称揚すること)そのものに無理があるのですけど。
ただ、ロマンが現実ではない夢や欲望だからこそ、見るべきロマン主義的なコンテンツというのは、特にサブカルチャーのような領域で先鋭的に発現するのだと僕は考えます。そこに現実が発現するのではなく。
まあでも、東氏にしろ大塚氏にしろ、そんなことはわかったうえであえて「リアリズム」を標榜し、オタクたちのためにピエロを演じて見せているのかもしれないですけど。(であるならば、こんなことを指摘している野暮な僕こそが今度はピエロだ、ということになる)
まあ、それはさておき。
僕は今回「動物化するポストモダン」と「ゲーム的リアリズムの誕生」を読みながら、ずっとこう思っていたのでした。
「うん、そうだよな。そうだったはずだよな」って。
つまり、ネットの登場によってこれまでのような近代的な世界構造(一方向的でコンテンツ志向的な世界構造)は終わり、ポストモダンな世界構造(双方向的でデータベース的な世界構造)が訪れるのだろう、と20年前はそう思っていたのでした。
でも、実際はどうだったのでしょうか。
確かに、最初に述べた「シェア」の概念のように、ポストモダンな世界構造的なものは現れ始めている。でも、それらはあまりに局地的ではないですか? それに、もっと俯瞰的な視点で見た場合はどうなのでしょうか?
ずっと前に僕は元WIRED編集長の若林恵氏が書いた「さよなら未来」という本のレビューを書いたのですが、そのレビューの出来はともかくとして、僕がその本に深く共感したのは、まさに著者の若林氏が感じていた「え? こうなるはずじゃなかっただろ?」という感じだったのでした。
「近代」という大きな物語を失ったらしい僕らは、結局のところ、今度はGAFAMという大きな物語を信じているだけなのではないでしょうか。あるいは、OpenAIだとかイーサリアムだとか。ただ政権が交代しただけで、時代は何も変化していないのでは?
つまるところ、ポストモダンも思ってたほどは訪れていないし、ゲーム的リアルも現実にはなっていないのです。それらはずっと、あの頃も、今も、僕らのロマンのままなのです。
重要なことは、何か新しい技術が生まれたところで、その技術を使うのは結局のところ人間だということです。「何かができるようになる」ことと「それを僕らが使う」こととは別問題なのです。新しい技術に関心がある人はいつも、「何かができるようになる」ことと「それを僕らが使う」ことを一緒にして考えるけれど。
それに、あの頃僕らは、ネットやアニメ、まんが、ゲームの隆盛によって何か変わるような、そんな予感と期待をしてたのです。僕らは「現実」を変えることのできる武器を手に入れたような、そんな気がしていた。
でも、実際はどう?
「動物化するポストモダン」も、「ゲーム的リアリズムの誕生」も、今読んでもとても面白いのです。もう20年前の本なのに。
でも、それってどういうこと? むしろそれってまずくない?
最初に述べたように、「動物化するポストモダン」が発行された年に生まれた子どもは今年23歳になり、「ゲーム的リアリズムの誕生」が発行された年に生まれた子どもは今年17歳になっています。いわゆるZ世代という人たちです。X世代である僕は、彼らの価値観が自分と違いすぎて戸惑うことも多々あります。でも、彼らもまた、これらの本をきっと楽しく読めるだろう、とも思うのです。なぜなら、彼らもまた、まだ僕も知っている近代的世界構造を引きずっているなあ、とも思うから。
こういうことを言うと、近代が間違っていてポストモダンが正しい、と僕が考えているように感じるかもしれません。でも、実際にはそうではありません。僕はそういう政治的な話をしているのではないのです。
僕の感じる違和感は、インターネットというツールが全世界にあまねく普及すれば、社会がポストモダン化するのが良くも悪くも必然だったんじゃないのか、なのになぜそうじゃないんだ? ということにあります。個人的な好き嫌いはあるとしても、どちらかが正しくてどちらかが正しくない、とは考えていません。
ただ、もしも世界が結局ポストモダン化せず近代のままなのだとしたら、僕はそのことに少し恐怖も感じるのです。なぜなら、もしもそうなのだとしたら、僕らは多分、近代という大きな物語を消失したつもりで、より大きな物語に飲み込まれている可能性があるから。あるいは、僕らはどこかで近代という大きな物語を終わらせたつもりで、ただそれをより強固なものにしているだけの可能性があるから。それはある種の詐欺のようなものなので、僕は嫌だなと思う。
たとえば、今のネット環境はユーザーの興味のあるコンテンツだけを見せるようになっていますよね。それってつまり、ネットという技術の便利な一面だけを使って一方向的でコンテンツ志向的な近代的世界構造を強化していることにならないでしょうか。だからこそ、このような使い方は特に政治の問題において顕著に現れるのではないでしょうか。
そして、多分、僕らが直視するべき「現実」は、実は僕らが僕ら自身が思っているよりもずっとずっとずーっとちっぽけだということです。それは、20世紀も、19世紀も、それ以前もずっとずっとずーっとそうだったのですが。
そのちっぽけな僕ら民衆の一意見など、恐らく何の意味もないのです。インターネットが普及したところで。
たとえばこの記事だって、僕は自分でこんな記事には何の価値もないことはわかってますけど、「現実」にはそれよりも、僕自身が思ってるよりも、さらにさらにずっとずっとずーっと価値がないのです。
そもそもこんな記事に辿り着く人自体がほとんどいないし、辿り着いた人のほとんどは「うわ、なんか面倒くさそう」とこの文章を読まずに立ち去るし、読んでくれた人のほとんどは「あ、こいつ頭悪いな」と鼻で笑って終わりなのです。それが現実。
だけどネット時代の欺瞞は、その現実を巧妙に隠していることにある。たとえば、SNS運営企業が仕掛けた罠であるバズり現象や、テレビなどのメディアがSNSなどの意見の中から自分に都合のいい意見だけを意図的に取り上げることによって。なぜなら、僕ら民衆が本当に僕ら民衆自身に実は何の意味も価値もないと思ってしまったら、困るのはメディアの側だからです。
つまり、僕ら民衆が手にしたこのネットというものは、実は武器なんかじゃなかった。ただの武器に見せかけたおもちゃであり、テレビゲームだったのです。僕らはそれを振り回し、撃ったり撃たれたりしている。しかも、時々それで本当に誰かが死んでしまったりもする。
それが「現実」。
僕は、この本を、僕と同世代の20年前に読んだ人たちに聞いてみたいのです。あなたたちは、今この本を読んで、どう感じますか? と。
あるいは、こう尋ねるのもいいかもしれない。あなたはモダンとポストモダンと、どちらにロマンを感じますか? と。
もしかしたら、この20年間、よりうまくやったのは、ポストモダニスト(これはポストモダン主義者というのではなく、世界がポストモダン化することを積極的、あるいは消極的に容認した人)よりもモダニストのほうだったのかもしれない。
僕らは本当は、インターネットが持つポストモダン的な可能性なんて、求めていないのではないでしょうか。僕らはただ、より便利なものが欲しいだけで。だって、もし僕らがポストモダン的な可能性を求めるならば、きっと僕らはこのネットというものをもっと武器として使うはずだから。
きっと、AIも、ブロックチェーンも、量子コンピュータも、メタバースも、そう。それは世界の表層のいくつかを変えるとしても、根本的に「現実」そのものを変えることはない。だって、それらを使う僕らは誰も、世界が変わることなんて、本当は望んでいないのだから。なんて言うのは、言い過ぎなのかなあ。
なんか、僕は最近ずっと思ってるんですよね。1990年代の終わりから2000年代の初めごろ、インターネットという技術がもたらすと言われていた色んなこと、あれはいったい何だったのだろう? って。
あれは、やっぱりただの夢だったのかなあ。
まあ、そうなのだろうな。それならそれで、別にいいのだけれど。どのみち現実逃避だったのだし。
それに、ロマン主義者同士の戦いなんて、側から見たらただのコメディでしかないですしね。ましてや、そのコメディが血みどろになんてなったりしたら、もう、それは笑うことすらできないですから。
そう、だから、うん、つまりこういうことなのかもしれない。
ネットが生まれた頃、僕らがみんな一度はどこかで耳にしたあの言葉をもじって。
「終わりなきクソゲーを生きろ」
なんてね。