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小説も、映画も美しい、「眺めのいい部屋」について。

「眺めのいい部屋」は、E・M・フォースターによって書かれた小説であり、1986年、ジェイムズ・アイヴォリイ監督によって、映画化もされている。

20世紀初頭。
イギリス人の弁護士の娘ルーシーは、年長の従姉シャーロットとともに、イタリアのフィレンツェを訪れる。
そこでルーシーは風変わりな青年、ジョージ・エマーソンと出会う。何かを心に抱え込んでいるようなジョージにルーシーは惹きつけられるが、彼は、鉄道会社に勤務する、階級の違う人間であった。
イタリアでの経験やジョージとの出会いは、彼女の内面に変化を起こしはじめていた。しかし、ルーシーはそれをはっきりと自覚できないまま、帰国後、貴族の青年と婚約をする。
ルーシーの中で、イタリアでのことは「なかったこと」になりつつあった。しかし、そんなある日、ルーシーはジョージと、思いがけない再会を果たす。

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ルーシーはイタリアに到着してほどなく、何かが起きはじめていること、それも、自分を内側から大きく変化させる何かが進行しはじめていることを、勘づいている。

ルーシーはあるとき、付き添いの者もなく、一人で散歩に出る。ホテルの人々との会話も退屈で、そして「何かもっと大きなものが欲し」かった彼女は、フィレンツェの街をさまよい歩く。「彼女のためを思ってくれる人々が賛成しないことを無性にしてみたかった」のだ。
ルーシーは、立ち寄った店でシスティナ堂のフレスコ画や、写真などを何枚か買う。しかしそれでも、彼女の心は満たされない。

「世界は美しいものに満ち溢れているに違いない。いまのわたしはそれがあるところへ行けないけれど」

そのとき、事件が起こる。金の貸し借りのことでイタリア人の男二人のあいだで喧嘩があり、一方が、一方を刺し殺したのだ。殺された男は口から血を流して、倒れる。それを目の当たりにしたルーシーは気を失うが、ジョージによって助けられる。

意識を取り戻したルーシーは、「わたし、どうしたのかしら」とつぶやく。彼女はこの言葉を、何度も口にする。

「死んだ男と同様に、自分も魂の境界を越えてしまったのではないかという気がした」

このあと、ジョージが言う。

「確かに何かが起こった」彼は繰り返した。「僕はそれが何なのか突き止めなければ」

この事件についてジョージは、一人の人間が死んだだけでなく、それと同時に、目撃した自分に(そして、ルーシーにも)内面を変化させるための何かが起こった、と感じているのである。

そして、ジョージはルーシーに、「僕は戻らない」と言い、さらにこうつけくわえる。

「僕はたぶん、生きたいのだと思う」

つまり、一度大きく揺さぶられて変化しはじめた魂は、もう、閉ざしておくことはできない、ということだ。

ルーシーは、イタリアからイギリスに帰国する。彼女のイギリスの家の客間は、新品の絨毯がだめにならないように、との母親の考えで、カーテンがきっちりと閉められていて光が入らない。そのうす暗い客間のカーテンの隙間から、母親は、庭を見ている。庭にいる自分の娘が、貴族の青年セシルの結婚の申し込みを受けてくれればいい、と思いながら。

ルーシーはセシルの申し出を受け、家族や知人たちに祝福される。
しかし、イタリアで、彼女の中に起きた変化は進行し続けていた。

「太陽が万物を平等に照らすように、誰もがその気になれば生きる楽しさを得ることができるイタリアで、彼女のそれまでの人生観は砕け散った。彼女の感受性は広がった。好感を抱いてはいけない人など存在しないということや、社会的な柵はたしかに動かしがたいが、それほど高くはないということを彼女は感じた」

「イタリアはこのうえなく高価な財産を彼女に差しだしたのだー彼女自身の魂を」

セシルと婚約したものの、ルーシーの中で、彼自身、そして、彼の考え方に対する違和感が、日に日に大きくなっていく。

その後、偶然からジョージはルーシーの近所にある家に住むようになり、二人は再会する。イタリアで起きたことは、やはり、終わっていなかったのだ。

あるときルーシーは、テニスをしに家を訪れていたジョージを呼びつけ、今後ここに足を踏み入れないように言い渡す。しかし、彼は彼女に言う。

「ルーシー、急いでくれ、いまはじゅうぶんに話す時間がない。僕の許に来てくれ。あの春の日のように。(略)あの男が死んだときから僕は君のことが好きだった。君がいなくては生きていけない。『いけないことだ』と僕は思った。『彼女はほかの男と結婚するのだ』だけどまた君に会ってしまった」

思いがけないジョージの熱い口調に、ルーシーは混乱してしまう。彼女に拒絶されたジョージは、しかたなく、彼女のもとを去る。

しかし、このあとルーシーに、真の変容が訪れる。イタリアで彼女が見たような風景が、彼女の心の中にも、広がることになるのである。

現実的なことを考えると、この結末は手放しでは喜べない、という意見もあろうが、それでも「眺めのいい部屋」は、人間の内面の変化と解放を、このうえなく美しく描いている小説であることは間違いない。

原作では、最後にジョージが、シャーロットに対する見解を述べる箇所があるのだが、それは映画の中では触れられていない。
私個人の意見としては、このジョージの見解を入れてもよかったのでは、と思っている。シャーロットが、「萎んでなんかいな」かったのだ、ということを、あらわすために。

とはいえ、映画のほうも素晴らしく、そして美しい。
私は長いあいだ、この小説と映画を、それも、とくに映画のほうについて、はっきりと、好きだということができなかった。本当に好きなものについては、なんだか恥ずかしくて正直に口に出せないことも、あるのである。

もうひとつ言っておくと、私は、キリ・テ・カナワが歌う「O MIO BABBINO CARO」を聴くだけで、この映画の一場面一場面を、そして、ラストシーンで窓から見える風景を思い出して、いつも、とても幸せな気分になる。

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