21歳、女、ゴダールが好き。 / 『気狂いピエロ』
皆さんこんにちは。
少しご無沙汰になってしましました。
スローライフな8月上旬から一転、多忙を極める日々を送っておりました。涼しげな表情をしながらも内情は、バスター・キートンの如く猛烈な勢いで必死こいて駆け抜けているようなイメージです。
ところで、今回は何の記事を綴ろうかとあれやこれや思案しましたところ、ふと一つ気がついたことがあります。
思い浮かぶ作品のその多くが、ゴダール作品なのです。
映画監督といえばジャン=リュック。
映画といえば『勝手にしやがれ』。
と、考えている節もあるほどに、ゴダールは映画文化の脊髄であり、いわば世界で一番の映画作家であると思っています。
ですから、私のような未熟者がゴダールを好きだと公にすることにどこかおさまりの悪さを感じていました。
しかし、自分の心理を見つめてみると、1本観出すと次々と他の作品を見たくなるのも、文献を探して読んでしまうのも、どんな時もまなざしたくななる作家とミューズの関係も、何よりいちばん観ていて楽しいのも、やはりゴダールでした。
もしかすると私は、ジャン=リュック・ゴダールというヌーヴェルヴァーグの映画作家が、他のどの作家よりも好きなのかもしれません。
ということで、今回は『気狂いピエロ』についてライトに綴りたいと思います。
敢えて順位をつけるならば、私はゴダールの作品群のうち、この『気狂いピエロ』は、『女と男のいる舗道』の次に好きな作品です。
劇中、「目は景色、口は言葉と化す擬音語」
という言葉が出てきます。
言葉の定義に立ち返ってみました。
"景色"とは、「観賞の対象としての自然界の眺め」と定義されており、近しい言葉として"風景"があります。しかし、この2項には決定的な差異があり、それというのは、人間の意識の有無です。
前者はあくまで鑑賞者(人間)の眼差しが存在して初めて成立する言葉です。一方で後者は、鑑賞者(人間)の有無に関わらず、各人がその場に根付いている事実のみにて成立します。
また、擬音語の定義とは、「物音や動物の鳴き声など、人間の発声器官以外のものから出た音を、人間の音声で模倣したものである。」というものです。
これらを考慮したとき、この「目は景色、口は言葉と化す擬音語」という言葉が指し示しているのは、映画そのものなのでは無いかと思いました。
映画とは、紛れもなく人間活動の産物であり、強かれ弱かれそこには必ず鑑賞者の眼差しが求められています。
また、以前どこやらの媒体に寄せた文章でも言及しましたが、映画とはフィクションであるというノンフィクション性を帯びており、その事実から決して乖離することのできない存在です。
今日私たちが享受している映画とは、景色を風景として模倣した文化なのかもしれません。そしてその対象とは、人間以外の生命であり、私たち人間は常にその対極に置かれているように感じます。
ゴダールはそれを強く意識してこそ、限りなく人間的な営みである政治を、煌めく海や眩い太陽と共に作品へ放り込むのでしょう。
ゴダール作品は、短編なども含めるとまだまだ全制覇の夢は程遠そうなので(そもそも全ての映像を入手可能なのでしょうか…)、気長に愛して行こうと思います。
最後まで読んでくださった方がいらっしゃいましたら、顔の周りにぐるぐるとダイナマイトを巻き付けてあげたいぐらい嬉しいです。冗談です。
ありがとうございました。
【追伸】
わたくしごとですが先日、誕生日を迎えまして、21歳となりました。
"ハタチ"で無くなってしまうことへ哀傷はありますが、人生21年目も強く生きて行こうと思います。