失敗したくてものづくり
正月から慣れない版画にチャレンジして、悉く失敗を繰り返している。
版に紙がくっついて破れてしまったり、破れずに刷れたと思ったら今度は全然色がついていなかったり。使っている用紙がいけないのか、絵の具がいけないのか、ローラーの使い方がいけないのか…分からないからとりあえずAmazonで色々と新しい道具を、「お急ぎ便」で注文して、悶々としながら明日を待つ。
でも、ものづくりをしている時の失敗は、不思議とあまり嫌な気持ちにならない。
もちろん、1年かけてしたためてきた作品に、誤って絵の具をぶちまけてしまったなんてことが起きたら、ものすごくガックリくると思うけど。そういう「結果的な失敗」は、日常の他の場面でも色々あるけれど、作品に向かっている時の私は、「プロセスとしての失敗」を望んでいるような気がする。
要するに、実験したいんだ。壁にぶつかって、それを乗り越えたい。もし、やってみて1回ですんなりいったとすると、逆に「これで良かったのかな」という不安すら沸いてしまうかもしれない。
造形的なところにはどれだけ失敗したかどうかなんて何も見えてこない。誰も知る由がない。たくさん失敗して出来た!と思った作品が酷評されることもある。でも、積み重ねた失敗は、私の心の中にだけ存在する宝。それでいいのだ。
「一人」でやるから出来ることだとも、思う。普段会社で仕事をしていて、「失敗を恐れずに」と言ってくれる寛大な上司がいたとしても、さすがに進んで失敗しようとは思えない。いつだって思い切りチャレンジしてみたい気持ちと、上司や同僚に迷惑をかけたくない気持ちの狭間で揺れ動くものじゃないだろうか。はたまた、失敗したというレッテルを貼られることへの恐怖と闘ってしまうものじゃないだろうか。だってそれが人間関係の中で生きるということだ。
そんな日常に慣れて、なんでも答えが欲しくなってしまって、「●● 上手なやり方」とか、「◯◯ マナー」だとか、すぐ検索してしまったり。
そんな自分が明日から急に、人目も気にせずイケイケドンドンで失敗していこうっていうのは無理がある。でも失敗に価値があることは、過去の人生を振り返ってみれば身に染みて分かるのだ。だからまずは、一人でできる失敗から。うずうずしてきたら、使ったこともない道具で、どうなるか自分でも想像のつかない絵を描いてみよう。