日本の芸術の歩みを押し留めているもの
結論から言えば、やはりそれは教育なのかな、という話をします。
「日本の今年の美術展ガイド」的な本を読んだことがありますか? 私はなかったのですが、この度、呉線の電車待ちの際に立ち読みにて初めて目を通しました。
こういうのですね。
日本画、仏像、バロック、印象派……キュビズム、フォービズムもあったかな? 即ち、ページを捲っていき、ふと気付きます。
具象芸術しか載っていない。
今回は、1週間ほど広島に帰省していくつか美術展に足を運んで感じたことと、上述のその本を捲って得た気付きを簡単にまとめておく文章です。
広島大学卒業制作展
広島大学教育学部造形芸術系コース卒業制作展。広島県立美術館でやっていたこの展示が今回の論考の発端でしょう。
絵画、彫刻、デザイン、工芸と色々な造形作品が並んでいましたが、気付いたことが一つ。
インスタレーションがない。
インスタレーション的な配置をしていたデザインの作品はありましたが(デザインしたジャケットを空間に展示していた)、空間に配置することによる意味付けが意識された作品はありませんでした。
そこに気付いたとき、抽象絵画やレディメイドもそこにないことを連鎖的に認識します。
20世紀以降の美術の流れがその展示には皆無だったのです。
広島市立大学芸術学部油絵専攻22期生プレ卒展「われわれは、」
その日のうちに街を歩いて見つけ立ち寄った展示がこの学部3年生展。
作品は油絵のみでしたが、その方向性は上述の卒展とはことなるものでした。
シュルレアリスム的描写、抽象、ミクストメディア……表現の質の話抜きに、そこには20世紀以降の美術の流れがありました。
あるいは、「新たな表現に挑む」という気概が感じられました。「技術を磨く」ではないのです。
広島市現代美術館「コレクション・ハイライト+特集「女たちの行進」」
この日の最大の目的は広島市現代美術館。特別展と同時に開催されていたこのコレクション展がすごいものでした。
デュシャン、ジャッド、ステラ、ラウシェンバーグ……挙げればきりがないほど美術史に名を残した作家たちの「本物の作品」が並びます。もっと勉強していれば私は更にそのコレクションの凄さにおののくこととなったでしょう、悔やまれます。
私が分かるだけでもこれだけの作家の本物が広島という地方都市にあると感じられる。日本で、あるいは世界的に見ても財産であるはずですが、その価値は今一つ伝わらない。私の母がその伝わらない人の典型例でした。
他方、同時開催していた企画展は「交わるいと」展。現代美術の色合いは薄目で、工芸が主の作品展は母も楽しんでいた様子でした。
美術は、まだ脱物質も脱視覚もしていないのです。
導入に戻る。
「美術展ガイド」的なムック本
便器がアンデパンダン展に出展が試みられなかった世界線の記述がなされているかのようなムック本。しかしこの本のみを批判することは無意味です。問題はその出版の背景にある社会側にあるのですから。
日本で「美術」/「芸術」/「アート」とは何を意味するのでしょう。
義務教育で、あるいは高校美術で美術史を習った記憶があるでしょうか。私にはないです。況や20世紀美術をや。
日本画が力を持った日本では、それが一つの関係性と見做され、社会における芸術への認識は20世紀初頭以降大きく変化していないのではないでしょうか。だから美術展が指し示すのは20世紀に入るまで、せいぜい入ってからも「何が描かれているか分かる作品」までです。
広島大学の卒展を振り返りましょう。教育学部の中にあるこのコースは、確かに作品を作る人たちのコースでもありますが、同時に将来的に美術教育を行う人たちのコースでもあります。その作品に20世紀以降の流れが存在していないことは、日本の美術教育の現状を示唆しているように感じられます。
同時に、芸術学部で表現を志し、美術史を学んだ人たちは、広島市現代美術館のコレクションに胸を躍らせる訳です。ここに社会と専門的美術教育を受けた人たちとの認識のギャップが生まれています。
ムック本が20世紀以降の美術の解説を放棄していることが批判対象になり得ないとは思いません。しかし、根本的な「教育」という下層のレイヤーにおいて、社会は20世紀以降の美術を知りません。
我々は、どこからこのギャップを埋めていけばよいのでしょうか。
教育カリキュラムの変更を働きかけるのか。大人向けムック本に少しずつ解説を増やすのか。デュシャンの人生の再現ドラマ・映画でも流行させるのか。全てを諦め、自分たちの表現を先鋭化させていくのか。
どこを向き、どこへ向かえばいいのか。われわれは、
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