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お茶のある日々 / 異国で茶を

*この文章は2024年5月に完成。


それは先月半ば、会社の研修でシンガポールに行った時のことでした。

ある朝、地元の方にローカル住宅地の散策やご当地の朝ごはんに案内されました。さすがに高度に発展したシンガポールだけあって、昔のプラナカン建築は残りつつも現代建築が林立し、うまく調合されていることに感銘しました。

その中で印象深いのは、緑がしっかりと残されていることです。散策した場所はアウトラムパーク近辺で、住宅地を主にしているとはいえ、決して都心を出ていません。しかし、それでも時折、妙にジャングルに迷い込んだ気分になります。

何しろ、視界に満ちているのは一面の緑でした。雲よりすぎ透ってきた微かな朝光で、鬱蒼たる南洋の植物と樹木は神々しくさえ感じました。

シンガポールには温度も湿度も高く、にわか雨がほぼ毎日発生しています。その日の朝もそうでした。

少しジメジメとしている空気の中を歩き、終わり頃に驟雨に遭われましたが、木の葉が少々散らばっていて、雨に洗われた道路は、かえって清々しいものだと感じました。

地元によると、シンガポールは四季がほぼなく、一年中こういう感じだそうです。年中高温高湿や多発な驟雨など、日本の夏と似ていると思われがちですが、やはり何か違います。土地の匂いというか、気配というか、そこに身を置かなければわからない、現地でなければ肌で感じられない、微妙な感覚が確かに存在しています。

そして、この地で、茶の湯がどのように発展できるだろうと、無性に思い始めるのも、茶をする人の習慣とも言えましょう。

まず露地の植栽はガラッと変わるでしょう。多くの日本の植物を無理やりここに連れてきても、生きられるとは思えないからです。しかし、変わるといっても、あくまでも土地柄に融合するだけのことで、根底にある侘茶の思想は不変なものです。私は何となく、『茶話指月集』の逸話を思い出します。中に、次のような話があります。桑山左近が利休に露地のしつらいを尋ねたのに対して、利休は次の一首を心得よと申されました。

樫の葉のもみぢぬからにちりつもる奥山寺の道のさびしさ

慈円

露地について、この歌の言葉通りでなくても、たとえ植栽や造りやその中の要素が異国や異文化のものになっても、その裏に潜んでいる精神は変わらないと、私は受け取りました。

しかし、これは日本のものを精神のみ残し、ほかの部分を完全に捨てるというわけではないと思います。

茶の湯は昔、現在のような多彩で国際化の社会情勢の中で育まれ、日本特有の美意識や文化の下で成長してきたことは、否めない事実で、日本なしには茶の湯が語られないと思います。

では、異国の地でどのように茶の湯を発展させていくかについて、実践している場所が違えども、実はすでに数多くの先人たちが教えてくださいました。その中で、茶祖と呼ばれる珠光は、現在は「心の文」と呼ばれる手紙「古市播磨法師宛一紙」の中に、次の訓えを残されました。

此道の一大事ハ和漢之さかいをまきらかす事、肝要肝要、

『古市播磨法師宛一紙』

約500年前から、先人たちはすでに茶をするために、和(日本的なもの)と漢(外国的なもの)を見境なくうまく融合させることに腐心してきました。

勿論、時代が時代で、それは専ら日本で行われました。あくまでも管見ですが、異国で茶の湯をするときに同じ概念で行うことができないでしょうか。

露地の話に戻ると、造園に使用する素材が一部変わっても、日本で歴史に磨かれた本物を見聞きしてきた人々には全員、違う土地に行っても、露地を日本の「市中の山居」の概念を保ちながらその土地の風土にうまく馴染ませる可能性が宿っています。

異国の地で茶の湯をするというのは、日本にいる時より異文化への理解が必要だと信じています。時には、現地の生活を体験し、土地ならではの食材や工芸品や美術品などからヒントが得られることも少なくないと思います。

幸いにも、今回は偶々ナショナルギャラリーを一周することができて、昔のものと風景が描かれている絵を見ることができました。中には、日本の草庵と共通点がありつつも、やはりどこか異なる南洋の山居が描かれた絵もあります。

私はシンガポールに移住するなど一度も考えていませんが、旅先でそうこう考えているうちに、何もかもが新鮮になって面白くなりました。露地のしつらい、数寄屋の要素、懐石に用いる料理、使用する器具などなど、本当に異国で茶の湯をするわけでなくても、茶の湯をめぐって思いを馳せることもまた楽しいです。

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