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瞑想の道

33
真我を探究する瞑想において、自らの内に真我を実証していく。それは知識と瞑想が重なり合って深遠なる真我を理解する道。
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瞑想の道〚33〛自我の変遷

 悟りは自我のためのものだ。そもそも、自我が悟りたいと願い、瞑想を始めたのだ。自我は瞑想から何かを手に入れ、それによって汚れなき自我になることを望んだ。実際に自我は瞑想することで、何らかの変化を感じ、よりよい自分になっていくのを感じるかもしれない。だが、いくらよりよい自分になっても、自我は世界の枠組みの中にある。そのため、それもまた変化するという宿命を免れ得ない。自我は何度もそのことを目の当たりにする。そして、もっと深い瞑想や強力な癒やし、神秘的なエネルギーを求めるようになる

瞑想の道〚32〛真我への道

 悟りへの道は無数にある。ただし、その終着地だけはたった一箇所、つまり真我そのものだ。真我という言葉に抵抗があれば、別の言葉でもいい。神の名前であったり、真理であったり、ワンネスや非二元でもいいだろう。言葉は違えど、その場所だけは同じなのだ。そこまでの過程は人それぞれだ。いますべての人が真我を求める必要はない。それぞれにこの世界で成功すること、癒やされること、問題を解決すること、やりたいことを見つけることであっていい。自分の能力を高めたり、心を落ち着かせたり、願望を実現するた

瞑想の道〚31〛自我と真我

 自我と真我はつながっている。なぜなら、真我なしに自我は存在できないからだ。その自我を真我は消し去ろうとするだろうか。自我を忌み嫌い、これは間違いだったと言い訳をするだろうか。真我がそう言うのを聞いたことがない。自我が不運な自我を嫌って、その救済を真我に頼むることはあるだろう。こんな自分ではいたくないと思い、この世界から消え去りたいと願う。もちろん、真我はそんな自我を救済したりはしない。自我はそのままにされる。このことは真我が無慈悲なのではなく、そもそも真我はこの世界で活動で

瞑想の道〚30〛苦悩の解決

 真我を知り、自らが真我になったとしても、自我が楽な状態になるわけではない。それで自我の傷ついた心が癒やされるわけでも、恐れが消えてなくなるわけでもない。実際にこの世界で生きているのは自我であり、私は傷ついている、恐れていると感じることは変わらない。真我はこの世界に取り込まれているわけではない。この世界を超えたところに存在している。自分が真我になるということは、身体や心ではなくなることであり、その生死さえも超えることだ。その真我が生きるのが苦しいとか楽になったと感じることはな

瞑想の道〚29〛言葉と真実

 自我と真我には明らかな境界がある。それを見極めなければ、真我を理解することは難しいだろう。真我でいるつもりでも、それは真我に似せた自我かもしれないのだ。真我には常在性があり、それがないということができない。自我は身体感覚や思考であり、それは無感覚や無思考という状態で不在になることがある。真我を理解するためには、そういった違いを見つけて確かめ、真我でいるとはどういうことなのかを突き詰めていく必要がある。そうして理解が深まっていけば、真我に対する信頼性が高まり、これは明らかに自

瞑想の道〚28〛神の存在

 神は存在するのか存在しないのか。神には姿かたちがない。伝説や物語に登場するいわゆる人格神は、姿かたちのない神をこの世界の人々が想像したものに過ぎない。それ自体が神の本質を語るものではない。現実には透明で動きのない存在が神であり、その神はこの世界で何もしない。ただ世界に寄り添っているだけだ。その神の本質を理解していなければ、まるで神など存在していないように感じるだろう。神を信じている人でも、その人に神が何もしないのであれば、次第にその存在を信じなくなるかもしれない。人々にどう

瞑想の道〚27〛真実と努力

 自分が真我であると悟ることは簡単ではない。ある意味、骨身を削るような大変な努力を必要とする。悟るためには、時空を切り裂き、自我という分厚い壁を破壊しなければならないのだ。そのために何もしなくていいという覚者の教えは、慎重に受け取る必要がある。それはあくまでも真我を悟った者の言葉であり、そうでない人のものではない。もちろんそれは人を騙すために言っているのではない。覚者は真我探求のために大変な努力を重ねて真我実現を果たした。ただ、結局何もしなくても、そもそも自分は真我であったと

瞑想の道〚26〛世界の役割

 世界は完璧だ。完璧な潮流の中にある。そこでどんな幸福や不幸があろうと総合的に完璧なのだ。自我は幸福であるとき、世界を祝福するだろう。不幸であるとき、世界を呪うだろう。自我がその境遇をどう評価しようと、世界は何も気にしない。世界は世界の動きをするだけであり、誰かが不幸になって嘆くことさえ、世界にとっては完璧な中での出来事なのだ。不幸な自我は幸福になりたいと思うだろう。そうなるために何かの努力をするかもしれない。あるいは、何の努力をする気力もなく、向上心もなく、人生を終えるかも

瞑想の道〚25〛自我の幻想

 世界は幻想であるという説がある。そこに生きている自分も幻想。だから努力しなくていいし、何も問題は起こっていない。本当にそうだろうか。そう信じれば、生きることが楽になるのだろうか。そこで起こる安堵感や解放感が自分の求めていたものなのだろうか。実際には世界が幻想かどうかは考える必要のないことだ。夢の中でこれが夢だと分からないように、幻想の中ではこれが幻想だと分からないようになっている。たとえそれが幻想だと分かったところで、夢のようにそこから覚めて何かの現実に戻ることはないのだ。

瞑想の道〚24〛非二元と私

 この世界の自我が非二元を論じるとは興味深い現象だ。非二元について、この世界の一般的な概念や論理で語ることは難しいことであり、それを理解するには、それ相当の瞑想修練が必要になる。非二元についての基本となる感覚なしに、自我がそれを理解することは不可能に近い。つまり、それについて考えても理解できないのであれば、意味がないことになる。実際に、非二元で語られる、すべてはひとつであることや起こることは完全であること、すべては愛であるについて、何を根拠に信じればいいのだろうか。どこかの高

瞑想の道〚23〛信仰の目的

 宗教を信仰することは特別な人類の歴史であるといってもいい。宗教信仰についてはそれぞれに賛否があるかもしれない。それを救いであると感じる人もいれば、人を貶める害悪だと思う人もいる。宗教には信仰の対象となる神や聖者がいる。原則的にそれらは人々に何らかの目的を告げる役割を持っている。神や聖者はその目的を達した者であり、その目的の重要性を知っているか、あるいは、目的そのものであるかもしれない。いずれにしても、宗教信仰には人を導くべき何らかの目的地があって、そこにたどり着くための方法

瞑想の道〚22〛不老不死

 真我を悟るとは、自分が真我になるということだ。それは自我を自分とすることからの決別であり、その時点で、自分は自我から離脱したことになる。自我の身体はいずれ年老いるか病気によって、この世界でのその活動を終えるだろう。だが、その終焉を迎える前に自分が真我になったのなら、その時点で自我としての自分は終焉を迎えたのだ。そうなったのであれば、その後に起こる身体の死さえこの世界におけるひとつの現象となり、すでに自分にとっての死ではない。真我実現において、自我は世界に戻され、世界の現象の

瞑想の道〚21〛真我の印象

 真我をどう感じるかは自由だが、その感じたものが真我の本質とは限らない。それはあくまでも自我が感じたことであり、つまりこの世界の感覚に依っている。真我には姿かたちがなく、そこに何の活動もない。それが真我の本質であり、実際にただ存在しているだけなのだ。それに触れて、至福や愛、暖かさや守護を感じたとしても、それは世界における感覚であり、真我という存在の本質にはならない。それでも、例えばそこに至福を感じれば、それは真我が自分に与えてくれた経験であると感じて、その記憶を大切にするかも

瞑想の道〚20〛自我の思考

 真我を悟る上で自我と世界のことを抜きにすることはできない。自分とは自我のことであり、その自我が世界で生きていると認識しているところから真我探求ははじまる。自我は身体が自分だと思うから大切に世話をする。誰でも病気にならないように注意し、病気になったら早く治るように処置をするだろう。心は自我が楽しく幸せな状態になるにはどうすればいいかを考える。自我の様々な経験は記憶となり、知識となり、自分のパーソナリティを形成していく。多様な感情を表現し、それは心地いいものも悪いものもある。ど