SOICHI SATO(空風瞑想)

真我探求の瞑想伝道者|悟りへの道|本当の自分を知る|空風瞑想|瞑想説明会|瞑想法の伝授…

SOICHI SATO(空風瞑想)

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マガジン

  • 瞑想の道

    真我を探究する瞑想において、自らの内に真我を実証していく。それは知識と瞑想が重なり合って深遠なる真我を理解する道。

  • 真我の軌跡

    真我補の本質は存在するということだけですが、この世界から見たときに、それは72の概念として言い表すことができます。

  • うつしおみ

    真実を求めてこの世界を旅する魂の物語。

  • 空風瞑想

    空風瞑想のご案内

  • 空風登山部

    登山記録。公共交通機関を利用して山に出かけています。基本的にソロ。山行で撮影した写真を掲載しています。ヤマレコ会員(nainoa)

最近の記事

瞑想の道〚33〛自我の変遷

 悟りは自我のためのものだ。そもそも、自我が悟りたいと願い、瞑想を始めたのだ。自我は瞑想から何かを手に入れ、それによって汚れなき自我になることを望んだ。実際に自我は瞑想することで、何らかの変化を感じ、よりよい自分になっていくのを感じるかもしれない。だが、いくらよりよい自分になっても、自我は世界の枠組みの中にある。そのため、それもまた変化するという宿命を免れ得ない。自我は何度もそのことを目の当たりにする。そして、もっと深い瞑想や強力な癒やし、神秘的なエネルギーを求めるようになる

    • 真我の軌跡(33)平和

      真我は常に平和で、それが乱されることがない。 真我には闘う相手がどこにもいない。 比較するべき誰かもいない。 そうであれば、平和であることしかできない。 真に平和を願うとは真我であろうとすることなのだ。

      • 瞑想の道〚32〛真我への道

         悟りへの道は無数にある。ただし、その終着地だけはたった一箇所、つまり真我そのものだ。真我という言葉に抵抗があれば、別の言葉でもいい。神の名前であったり、真理であったり、ワンネスや非二元でもいいだろう。言葉は違えど、その場所だけは同じなのだ。そこまでの過程は人それぞれだ。いますべての人が真我を求める必要はない。それぞれにこの世界で成功すること、癒やされること、問題を解決すること、やりたいことを見つけることであっていい。自分の能力を高めたり、心を落ち着かせたり、願望を実現するた

        • 真我の軌跡(32)無欲

          真我には欲というものがない。 不足しているものが何ひとつないからだ。 この世界のすべては真我によってつくられている。 つまり真我はすでに世界すべてをその手中にしているのだ。 そのため真我には欲という観念そのものさえない。

        瞑想の道〚33〛自我の変遷

        マガジン

        • 瞑想の道
          33本
        • 真我の軌跡
          33本
        • うつしおみ
          60本
        • 空風瞑想
          0本
        • 空風登山部
          4本
        • ピルグリメイジ(巡礼)Ⅳ
          3本

        記事

          瞑想の道〚31〛自我と真我

           自我と真我はつながっている。なぜなら、真我なしに自我は存在できないからだ。その自我を真我は消し去ろうとするだろうか。自我を忌み嫌い、これは間違いだったと言い訳をするだろうか。真我がそう言うのを聞いたことがない。自我が不運な自我を嫌って、その救済を真我に頼むることはあるだろう。こんな自分ではいたくないと思い、この世界から消え去りたいと願う。もちろん、真我はそんな自我を救済したりはしない。自我はそのままにされる。このことは真我が無慈悲なのではなく、そもそも真我はこの世界で活動で

          瞑想の道〚31〛自我と真我

          真我の軌跡(31)清廉

          真我は決して汚されることがない。 常に清廉であり、何者もそれに触れることさえできない。 真我は匂いを嗅がれたことのない花のように汚れなきもの。 それを汚そうとする者は、それが無理なことだと悟るだろう。 真我に汚れた手を伸ばしても、その手もまた真我になってしまうのだ。

          真我の軌跡(31)清廉

          瞑想の道〚30〛苦悩の解決

           真我を知り、自らが真我になったとしても、自我が楽な状態になるわけではない。それで自我の傷ついた心が癒やされるわけでも、恐れが消えてなくなるわけでもない。実際にこの世界で生きているのは自我であり、私は傷ついている、恐れていると感じることは変わらない。真我はこの世界に取り込まれているわけではない。この世界を超えたところに存在している。自分が真我になるということは、身体や心ではなくなることであり、その生死さえも超えることだ。その真我が生きるのが苦しいとか楽になったと感じることはな

          瞑想の道〚30〛苦悩の解決

          真我の軌跡(30)平等

          真我は誰にとっても同じものだ。 誰かだけ強かったり弱かったりするものではない。 富める者や貧しい者も、幸せな者や不幸な者もそれは同じだ。 その見かけの姿で真我の有無を決定づけることはできない。 真我だけがこの世界で平等なものなのだ。

          真我の軌跡(30)平等

          瞑想の道〚29〛言葉と真実

           自我と真我には明らかな境界がある。それを見極めなければ、真我を理解することは難しいだろう。真我でいるつもりでも、それは真我に似せた自我かもしれないのだ。真我には常在性があり、それがないということができない。自我は身体感覚や思考であり、それは無感覚や無思考という状態で不在になることがある。真我を理解するためには、そういった違いを見つけて確かめ、真我でいるとはどういうことなのかを突き詰めていく必要がある。そうして理解が深まっていけば、真我に対する信頼性が高まり、これは明らかに自

          瞑想の道〚29〛言葉と真実

          真我の軌跡(29)許容

          真我は世界のあらゆる出来事を許容している。 世界の針路を支持し、その過程を信頼している。 善悪も好き嫌いもなく、愛や憎しみさえ分け隔てない。 真我にとっては、世界のどんな側面も同じものなのだ。 それらをすべて許容できる懐の深さが真我にはある。

          真我の軌跡(29)許容

          瞑想の道〚28〛神の存在

           神は存在するのか存在しないのか。神には姿かたちがない。伝説や物語に登場するいわゆる人格神は、姿かたちのない神をこの世界の人々が想像したものに過ぎない。それ自体が神の本質を語るものではない。現実には透明で動きのない存在が神であり、その神はこの世界で何もしない。ただ世界に寄り添っているだけだ。その神の本質を理解していなければ、まるで神など存在していないように感じるだろう。神を信じている人でも、その人に神が何もしないのであれば、次第にその存在を信じなくなるかもしれない。人々にどう

          瞑想の道〚28〛神の存在

          真我の軌跡(28)慈悲

          世界は真我から誕生した。 そうであるなら、真我は世界を我が子のように慈しむだろう。 その慈しみによって、世界を遍く在らしめている。 たとえ誰ひとり真我を知らなくても、世界は存在する。 そう存在させていることが真我の慈悲なのだ。

          真我の軌跡(28)慈悲

          瞑想の道〚27〛真実と努力

           自分が真我であると悟ることは簡単ではない。ある意味、骨身を削るような大変な努力を必要とする。悟るためには、時空を切り裂き、自我という分厚い壁を破壊しなければならないのだ。そのために何もしなくていいという覚者の教えは、慎重に受け取る必要がある。それはあくまでも真我を悟った者の言葉であり、そうでない人のものではない。もちろんそれは人を騙すために言っているのではない。覚者は真我探求のために大変な努力を重ねて真我実現を果たした。ただ、結局何もしなくても、そもそも自分は真我であったと

          瞑想の道〚27〛真実と努力

          真我の軌跡(27)信頼

          真我は何よりも信頼することができる。 思考や感情がどのような状態であれ、真我は変わることがない。 愛想をつかして離れたり、冷たい態度で立ち去ることもない。 絶望に打ちひしがれていても、悲しみに沈んでいても、 罪悪感に苛まれているときも、真我は黙ってそこにいてくれる。

          真我の軌跡(27)信頼

          瞑想の道〚26〛世界の役割

           世界は完璧だ。完璧な潮流の中にある。そこでどんな幸福や不幸があろうと総合的に完璧なのだ。自我は幸福であるとき、世界を祝福するだろう。不幸であるとき、世界を呪うだろう。自我がその境遇をどう評価しようと、世界は何も気にしない。世界は世界の動きをするだけであり、誰かが不幸になって嘆くことさえ、世界にとっては完璧な中での出来事なのだ。不幸な自我は幸福になりたいと思うだろう。そうなるために何かの努力をするかもしれない。あるいは、何の努力をする気力もなく、向上心もなく、人生を終えるかも

          瞑想の道〚26〛世界の役割

          真我の軌跡(26)真実

          真我はこの世界で唯一の真実だ。 それは誰の心にも宿っていて、誰にとっても同じもの。 どんな現象よりも現実であり、いつでもそう確かめられる。 その真実は決して変わらず、失われることもない。 真我が在ること、その真実から逃れることはできない。

          真我の軌跡(26)真実