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瞑想の道〚32〛真我への道

 悟りへの道は無数にある。ただし、その終着地だけはたった一箇所、つまり真我そのものだ。真我という言葉に抵抗があれば、別の言葉でもいい。神の名前であったり、真理であったり、ワンネスや非二元でもいいだろう。言葉は違えど、その場所だけは同じなのだ。そこまでの過程は人それぞれだ。いますべての人が真我を求める必要はない。それぞれにこの世界で成功すること、癒やされること、問題を解決すること、やりたいことを見つけることであっていい。自分の能力を高めたり、心を落ち着かせたり、願望を実現するために瞑想を始めてもいいのだ。真我はそれを無駄なことだと非難することはない。それが何であれ、人はいま自分がやりたいと思うことをやり、やめたいと思うことをやめるだけだ。そうすることは世界によって認められている。

 この世界で何が正しいのかということはない。誰が正しいのかさえ明瞭になることはない。人は信じたいことを信じ、信じたい誰かを信じるだけだ。大切なことを大切にし、大事な人を大事にする。それは変化の中にあり、そういうことさえ常に移り変わっている。この世界が変化するということは福音だ。それは何かに縛り付けられていないことを意味する。そして、そのどんなことさえ最終地へと向かっているということなのだ。最終地に向かっているということに抗うことはできない。それとは反対の自我まみれの方向に進もうとしても、最終地である真我へと向かっている。真我を否定する者でさえ、そうして真我へと向かっているのだ。

 真我だけが、この時空の全体図を把握している。なぜなら、この時空は真我を源としていて、あらゆるものが真我によってつくられているからだ。世界のどんな存在もこの真我を超えることはできない。それを単に愛という概念で説明することは適切ではない。その概念は不明瞭で、限定的で、その言葉自体に憎しみや嫉妬といった影を含んでいる。真我は無性質であり、姿かたちがなく、何の活動もせず、何の意図も持っていない。ゆえに一切の光や影を持たず、カルマさえもない。この世界の概念で真我を正確に説明することはできない。説明できるとすれば、それは時空の源であり、旅人にとっての終着地であり、「私」といえる唯一の存在だということだ。

 真我への道のりは長く険しいものになる。何もせず自然に真我を理解することはできない。必死になって探求しなければ、それを理解することは難しい。真我はすでに自分なのだから探求する必要はないと言っている者は、その厳しさを恐れて、その入口で何とかして楽できないかと考えているだけに見える。だが、それも真我への道のひとつだ。その人の歩いている道の全体像を知らなければ、その途上での主張など何の意味もないだろう。誰が何かを言おうと、その言葉を真に受ける必要はない。真我の真実はそれを自分で確かめて、自分の中で真実であると知る必要がある。真我実現は自分だけの道であり、自分自身で確証を持てることなのだ。

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