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瞑想の道〚30〛苦悩の解決

 真我を知り、自らが真我になったとしても、自我が楽な状態になるわけではない。それで自我の傷ついた心が癒やされるわけでも、恐れが消えてなくなるわけでもない。実際にこの世界で生きているのは自我であり、私は傷ついている、恐れていると感じることは変わらない。真我はこの世界に取り込まれているわけではない。この世界を超えたところに存在している。自分が真我になるということは、身体や心ではなくなることであり、その生死さえも超えることだ。その真我が生きるのが苦しいとか楽になったと感じることはない。もちろん、傷ついたり恐れたりすることさえ起こらない。だが、この世界に置かれている自我は、その苦悩の感覚を現実だと感じる。たとえ真我であってもそれを消すことはできず、コントロールすることもできない。

 真我であれば、自我が苦しんでいても楽しんでいても、どちらでも問題ない。自我は辛いことから解放されたいと願い、そのためにできることをするだろう。苦しみをもたらしている問題に向き合い、対話によって誰かとの関係性を改善したり、瞑想をして乱れた心を落ち着かせたりもする。自我を癒やすための様々な方法がこの世界にはある。自我がそうすることに何も問題はない。そうして苦しみから解放されたのなら、それはそれでいいことだ。だが、それは自我の苦悩の根本的な解決にはなっていない。それは一時的で、自我がこの世界に存在している限り、幸福と苦悩は交互にやってくる。自我はその度、何らかの対処をしなければならず、その作業は永遠に終わらないのだ。

 自我が「私」であるとき、「私」は世界におけるその自我の苦しみに巻き込まれている。そして現実に「私は苦しんでいる」と感じる。真我が「私」であるとき、自我の苦しみには巻き込まれていない。ただ自我が苦しんでいると知っている。自我が苦しむのは必要なことであり、そこから何らかの解決方法を見つけることも、見つけられないことさえも自我の行く末に必要なことなのだ。自我の活動は世界の自律的な活動に委ねられている。そう委ねられていても、真我には何の問題もない。そこで真我が苦しむことはなく、自我が苦しむことを信じてもいるということだ。

 自我の苦しみの根本的な解決方法は、「私」を真我に移譲する方法以外にはない。「私」が真我になったとき、そこから見える景色が変わる。そこで真我と世界との関係性を理解し、この全時空の仕組みを目の当たりにするだろう。それを知ったとき、この世界における自我の苦しみもまた理解できるのだ。その苦しみがあるからこそ、自我はそこから完全に離脱する方法を模索しようとする。最終的にそれは真我になる以外に方法はないと知る。この過程を自我が信じられるかどうかは、自我の精神的成熟の問題に委ねられる。「私」はすでに真我であることが真実のため、自我はそれを遠くまで探す必要も、無からそれをつくり出す必要もない。やるべきことは、すでに「私」が真我だと知ることだけだ。それだけで自我は自らの苦悩を包容できる知見を得るのだ。

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