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瞑想の道〚29〛言葉と真実

 自我と真我には明らかな境界がある。それを見極めなければ、真我を理解することは難しいだろう。真我でいるつもりでも、それは真我に似せた自我かもしれないのだ。真我には常在性があり、それがないということができない。自我は身体感覚や思考であり、それは無感覚や無思考という状態で不在になることがある。真我を理解するためには、そういった違いを見つけて確かめ、真我でいるとはどういうことなのかを突き詰めていく必要がある。そうして理解が深まっていけば、真我に対する信頼性が高まり、これは明らかに自我だとか、これは確かに真我だと分かるようになっていく。

 瞑想の道において、「私」は真我であると理解することが終着地点だ。それは終着地点ではあるのだが、そこにはまだ真我とは何かを知る余地が残されている。それは「私」が自我にあるときには分かり得ないことだ。もちろん、覚者の言葉で知識的に真我を知ることはいくらでもできるが、それは知識であって自覚的な理解ではない。その知識は中身がなく空虚なままなのだ。それが悪いということではない。その空虚さを真実の理解で埋めていけばいいのだ。これは自我的な作業に思われるかもしれないが、自我が真我に「私」を完全に明け渡すために必要な過程になる。

 真我をほんとうに理解するためには真我になるしかない。真我に似せた自我では不十分だ。真我であることを感じて、そこから自らを確かめていく。それは感覚的なことになる。その感覚を言葉で言い表すことが難しいと感じるかもしれない。だが、先人の覚者が残した言葉や知識が、すでにそれを言い表してくれている。ここでようやく溜め込んできた知識が役に立つ。何を言っているのか分からなかった覚者の言葉も、真我であるときのみその真意に気づくことができるだろう。そうして空虚だった言葉が真実で満たされていくのだ。それで自我は真我への理解を進めていく。

 真我の理解が深まれば、非二元やワンネス、無条件の愛、恩寵、慈悲といった知識としての言葉の本質に直接触れることになる。本質に触れたのなら、その言葉は真実で満たされ、自我は直接それを理解し、その後はその言葉の必要性が失われる。自我が完全に「私」を真我に明け渡すのなら、もはやそこに真我についての言葉の説明は必要なくなるのだ。自我はその状態に満足して、それを伝えるためになおも世界で言葉を語るかもしれない。だが、すでに真我になっている「私」にとっては関知する事柄ではない。どの状態においても真我について語っているのは自我であり、真我は黙して語らずを貫くのみだ。

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