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瞑想の道〚33〛自我の変遷

 悟りは自我のためのものだ。そもそも、自我が悟りたいと願い、瞑想を始めたのだ。自我は瞑想から何かを手に入れ、それによって汚れなき自我になることを望んだ。実際に自我は瞑想することで、何らかの変化を感じ、よりよい自分になっていくのを感じるかもしれない。だが、いくらよりよい自分になっても、自我は世界の枠組みの中にある。そのため、それもまた変化するという宿命を免れ得ない。自我は何度もそのことを目の当たりにする。そして、もっと深い瞑想や強力な癒やし、神秘的なエネルギーを求めるようになる。それによって、何らかの効果を得るかもしれないが、世界の変化は何度でもそれを簡単に押し流してしまう。

 そこで起こることは、自我が不完全な自我を否定することだ。望み通りに事が進まないのは自我があるからであり、自我を消し去らなければならないと考える。瞑想はそんな自我を消し去る手段として使われ、それを消すことが悟りの境地なのだと想定する。瞑想で誰もいない無の境地に達したとき、ようやく自我が去ってくれたと安堵する。だが、そこには自我を失ったと思っている自我が残っている。この現象も世界の範疇にある変化であるため、気づけば、消したと思っていた自我が世界で活動している。自我は落胆し、どうしたらこの状況から脱することができるのか、その答えが見つからずに途方に暮れるのだ。

 悟りとは自我を別の何かに変化させるものではない。その考え方や生き方を変えることでもない。古の聖人たちの人生訓を学ぶことは間違いではなく、それはいいことだ。だが、悟りということについていえば、程遠いものになる。汝自身を知れ、自らを拠り所とせよ、私は誰かを探求しなさい。聖人たちはこう言葉を残した。たとえ自我がその言葉を覚えても、そうなるわけではない。だが、そこで自分は本当に自我なのかという疑問が起こる。いままでは、当たり前の状況として、自分は自我のことだという前提で物事を進めてきた。もし、自分が自我でないとするなら、その前提条件から間違っていたことになる。

 そう気づいた自我は、瞑想で真の自分を探し、そこで真我を見つける。これが悟りの第一歩だ。そして、自分をその真我に転移し、自我を世界に返還する。そうすることは、自我が真我を現実に存在するものだと理解すれば、自我の判断で可能になる。自分の行き先が明確であれば、自我が消滅を恐れて混乱することもない。自我は世界で相変わらず自分磨きの活動している。だが、それはもう自分ではなくなっている。自我は無になる必要などなかった。自分は真我として存在している。自我もそう理解している。自我と真我は分断されているわけではなく、むしろ密接につながっているため、その理解が起こる。

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