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【Kindle】3冊目発売への想い。

私ごとながら、
昨日、3冊目のKindleを出版しました!!


『パッと伝わるテクニック|noteの書き方大全①(改訂版)』

ってタイトルです!




ただ「本出したよ!買ってね!」って宣伝するのは、なんか気が引ける・・・

というより、ちゃんと「どんな想いで」出版したのか、
そこんところを知ってほしいな、って思ったんです。


ので!


そこんところをインタビューしちゃいました!!


——「しちゃいました」!?


いや、アンタは「される」側やろがい、って!?


そうです!
そうなんです!!!

しちゃったんです、インタビュー!

自分で!
自分に!!!(失笑)


——と、茶番は置いといて、

Kindle出版への想いをインタビュー形式にまとめてみました。

では、どうぞ!!!



そらさん、今日はありがとうございます。
早速ですが、今回のKindle本『noteの書き方大全①(改訂版)』を執筆しようと思ったきっかけを教えてください。

そら:
うーん・・・。うまく表現できないけど、強いて言えば「過去の自分を超えるため」ですかね。

この本、実は初出版した本の改訂版なんです。
いわば「リメイク版」ですね。

初出版の時は、本当に分からないことだらけでした。
原稿って何に書くの?
WordでOK?
どうやってKindleにアップロードするの?何か登録が必要?
宣伝はどうする?やっぱりSNSがマスト?
まさに試行錯誤、行ったり来たりの繰り返しでした。

そんな中でも、内容はガチのガチで考えました。
今の自分に書けること、書きたいことを全て盛り込んだ。
自信を持ってそう言えます。

で、初出版の本を出してから1年が経ちました。
ありがたいことに、たくさんの人に読んでもらえた。
高評価のレビューももらったし、Amazonの無料ランキングでも2冠になりました。

けど、心のどこかに「何か」が引っ掛かっている。
それは「もっとこの本を良くしたい」って想いでした。
あれから1年が経ち、「今の自分」にならもっと違う内容も書けるじゃないか。 もっと読者に役立つことが書けるんじゃないか。
そう思ったんです。

あの頃の自分を超えて、もっと良い本にしたい。
だから、今回出す3冊目の本は、「過去の自分」への挑戦だと思っています。


なるほど。「過去の自分を超えるため」…シンプルだけど、強い決意を感じます。
そらさんにとって、初出版の本は「今の自分にできる全てを詰め込んだ本」だったわけですよね?
それでも「もっと良くしたい」と思った。その感覚って、どんなものでしたか?
たとえば、「ここが足りなかった」とか「この部分をもっと深掘りしたい」と思ったポイントはありましたか?


そら:
ありがとうございます。

1冊目に書いたこと、それ自体には満足しています。
なので、どちらかというと、その時に「書かなかったこと」、もっというと「書けなかったこと」を、今回書き足したいなって思ったんです。
具体的にいうと、 読者が「今すぐ」使える工夫をもっと盛り込みたいなと思ったんです。

もちろん、1冊目の内容を読んで、そのまま実践するだけでも効果があると思います。
ですが、もっとすぐに役立つもの、言い換えれば「そのまま使える」くらい即効性のあるアイテムを入れたいなと。

これにはこんな思いがあります。
それは、「本を読むことをゴールにしてほしくない」というものです。
もちろん、本書を手に取って読んでいただける。
それだけでも望外の喜びです。

ですが、読者の目線に立って考えると、 「ただ読むだけ」では、せっかくの貴重な時間がムダになってしまいます。
本書は小説やマンガのような、「楽しむための」本ではありません。
いわば、本書は「学ための」本なのです。

受験の参考書を想像してみてください。
ただペラペラと参考書を読むばかりでは、残念ながら、学力アップは難しいでしょう。

やっぱり、問題を解く、その「実践」が大事なわけです。
それと同じで、本書も「ただ読むだけ」ではなく、「読んでから」を大事にしてほしい。
だからこそ、今回のKindleでは「読んだ後にすぐに使える」工夫を盛り込みました。
具体的な内容は・・・・・・。おっと、これままだナイショです。


「本を読むことをゴールにしてほしくない」。すごく印象的な言葉ですね。
読者にとって、本書は「実践するための道具」なんだと感じました。
ただ、そらさんご自身は、もともと「書くこと」をどう捉えていたんでしょう?
今でこそ「読んでから」が大事だと考えていると思いますが、noteを書き始めたころは、どんな気持ちで文章を書いていましたか?
たとえば、「自分のために書いていた」のか、「誰かのために書いていた」のか、どちらが強かったでしょうか?


そら:
正直なところ、「自分のために」書いていました。

文章は、その人の心を写す鏡だと思っています。
楽しい時には明るい文章になるし、悲しい時には暗い文章になる。
あれ、太宰治は逆のことを言っていたような・・・。
脱線するのでスルーします。(笑)

実は私、5年くらいずっと紙のノートに日記やメモを書いているんです。
「日記やメモ」と言ったのは、「ズバリ日記帳」とか「ズバリメモ帳」のように明確な目的を定めずに、何かあればザザザーっとそのノートに書き込む。そんな使い方をしてたからです。

今の時代、やろうと思えばいくらでもペーパーレスにできますよね。
わざわざペンを使って紙に書かなくても、パソコンでタイピングすればいいし、もしペンを使いたくても、iPadとかタブレットを使えばOK。
もはや「紙とペン」を使うことのほうが少ないと思います。

でも、私は紙とペンの良さがあると思っています。
手を動かして——疲れるけど——紙に文字を書く。想いをのせる。
そうやって書いたものって、ちゃんと自分の心が通う感じがするんです。

だから私は、嬉しいことがあった時とか、ムカついた時とか、じっくり考えたいこととか、そういうことは紙のノートに書くようにしてるんです。

・・・あれ、これ何の話だっけ?
脱線しちゃいました。スミマセン!!(笑)

言いたかったのは、私にとって「書くこと」というのは、極めて内向きな行為であって、 だからこそ、人に見せる——いや、発信する——文章も、いわば「自分に向けて」書いたものだったんです。
「だった」というと過去の話のようですが、今も文章への根本の想い、向き合い方は変わっていません。


「書くことは、極めて内向きな行為」。とても共感します。
そらさんにとって、書くことは「自分の心を写す行為」でもあり、「自分自身と向き合う時間」でもあるんですね。

でも、それならなおさら気になるのが、なぜ「発信しよう」と思ったのか、ということです。
紙のノートに書いていたなら、そのまま誰にも見せずに続けることもできたはず。
それなのに、noteで文章を発信するようになったのは、どうしてなんでしょう?



そら:
イタイところを突きますね・・・(笑)

正直なところ、自己顕示欲があったような気がします。
大事な日記帳を学校のロッカーに隠してあるんだけど、わざとちょっと他の人が見えるようにしておく、みたいな。
見られたくないんだけど、見てほしい。そんな矛盾した気持ちがあったように思います。

誰しも「何者か」になりたい時期って、ありませんか?
私にはそれがありました。
私はいわゆる「Z世代」なのですが、周りを見ると、いろんな方法で自己表現をしている。
TikTokもそうだし、インスタもそうだし、YouTubeもそうだし。 何かしらで何かしらを発信している。

じゃあ私は何を発信できるだろう、と考えたんです。
その時思い浮かんだのが「文章」だったんです。
ここの話を始めると時間が溶けちゃうので、、、詳しい話は割愛します。

それともう一つ。
「誰かと繋がりたい」って想いもありました。
私がnoteを始めたのは、2021年、まだ「不要不急」な対面や移動が憚られる時期でした。
家に篭りがちになっていて、閉塞感とか、孤独を感じていました。
そんな時、ごく自然に「誰かと繋がりたい」って思ったんです。
そして、その手段は「文章」しかないな、と。

私はダンスもできないし、歌も別段上手じゃありません。
YouTuberのような、面白おかしい企画も思いつかない。
でも、私は「書くこと」ならば、人一倍好きだし、きっといいものが書ける、という謎の自信があったのです。

だからかな、私は「自分に向けて」書いていた文章を、少しずつ「他者に向けて」書くようになりました。


「見られたくないけど、見てほしい」。すごくリアルな感情ですね。
そして、「何者かになりたい」という想いと、「誰かと繋がりたい」という想いが、発信の原動力になったんですね。

でも、「自分に向けて書くこと」と「他者に向けて書くこと」って、似ているようで全然違うものだと思うんです。
最初は「自分のため」に書いていたそらさんが、「他者に向けて書く」ようになったことで、何か葛藤や違和感を感じたことはありましたか?


そら:
ありましたね。

一番大きな葛藤は、「誰のために書いているんだろう」と、自分で自分の気持ちが分からなくなっちゃう。
そんな葛藤でした。

誰にも見せなければ、私の文章は私だけのものです。
最初から他者に見せるための文章ならば、もちろんその文章は他者のためのものです。
でも、自分のために書いた文章を、他人にも見せる——というより、見せつける——。
そんなスタンスでモノを書いていると、ふとした瞬間に「あれ、これって誰のために書いてるんだっけ?」と、冷める瞬間が来るんです。
書きたいから書いてるんだっけ?それとも読ませたいから書いてるんだっけ?と。

この葛藤は、今でも時折襲われます。
というより、これは文章を書く人、そしてそれを発信している人には付き物ではないでしょうか。
とはいえ、さいきんは昔よりも上手くこの「やっかい」にも向き合えている気がします。


「誰のために書いているんだろう」。それは、発信する人なら誰もが一度はぶつかる壁かもしれませんね。
書くこと自体が好きだからこそ、純粋に「書きたい」という気持ちと、「読まれたい」「届けたい」という気持ちの間で揺れるんでしょうね。

でも、そらさんは「最近は昔より上手く向き合えている」と言っていました。
具体的には、どんなふうにこの葛藤と向き合えるようになったんでしょう?


そら:
昔は、この葛藤を抱えること、つまり、「書きたい」と「読ませたい」が混在するのは良くないことだ、と自分を責めていたんです。

「自分のため」にも振り切れないし、「読者のため」にも振り切れない。
そんな中途半端な自分が許せなくて。
だから、ある時期は「自分は執筆者として失格だ」と、勝手に自分を失格させたこともありました。(笑)

でも、さいきんは向き合い方が変わってきたんです。
こういう矛盾した思いがあってもいいんじゃないか、って。
いや、むしろそのほうが自然なんじゃないか、って。
いわば、「自分を許す」ことにしたんです。

私、どこか自罰的なところがあって。
「自分がダメだからだ」とか「自分が悪いんだ」とか思っちゃうんです。
もちろん、自分のダメなところはダメと認めた上で、必要以上に自分を責めなくてもいいのかなって。

文章への向き合い方も、そんな心境の変化があって、いわば良い距離感を保てるようになりました。
——あ、そろそろ時間ですね。ぼちぼち最後の質問でお願いします!


「自分を許す」。それは、書くことだけじゃなく、生きる上でも大切なことかもしれませんね。
昔は「中途半端な自分が許せなかった」そらさんが、今では「それでもいい」と思えるようになった。
その変化を聞いて、そらさん自身が書くことを通して成長してきたんだなと感じました。

では、最後の質問です。
そらさんにとって、「書くこと」とは何ですか?


そら:
「書くこと」とは、か・・・。

私にとって「書くこと」とは、「自分と向き合うこと」だと思っています。
——この答えが真っ先に口に出るってことは、やっぱり私は「自分のため」に文章を書いてる、って思いが強いのかもしれませんね。

どんなことを、どんなふうに書くか。
それがその人を映し出すと思っています。写鏡のように。

だから、私は私が書くものを通して、私を知りたいんです。
いまどんな気持ちで、どんなことに関心があって、どんなことを伝えたいのかな、って。

そして、私は私が書くものを通して、私を知ってほしいんです。
いまこんな気持ちで、こんなことに関心があって、こんなことを伝えたいんだよ、って。

文章という写鏡を通して、私と、そしてあなたと向き合いたい。 それが、私の「書くこと」への想いです。


「文章という写鏡を通して、私と、そしてあなたと向き合いたい」。
素敵なお考えですね。

そらさんにとって、書くことは「自分を知る手段」であり、同時に「誰かと繋がる手段」でもあるんですね。
最初は「自分のため」に書いていた。でも、発信を続ける中で「誰かに届けたい」という気持ちも生まれた。
その葛藤を乗り越え、「自分を許す」ことで、今はちょうどいい距離感で書けるようになった。
——この話を聞いて、そらさんの書く文章がどうして多くの人に届くのか、その理由が少し分かった気がします。

そらさん、今日は貴重なお話をありがとうございました!


そら:
こちらこそありがとうございました!




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そら|肩書きのないnoter
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