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散歩と思索|『散歩哲学』を読んで
島田雅彦『散歩哲学』を読んだ。
散歩する意味について哲学者や作家の著書を元に考え、自分の東京郊内の散歩と郊外の旅を振り返る本だ。
散歩の意義だけではなく、言葉の語源も気になった。
社会生活
縄文人は「遊び人」であったといわれている。狩りに従事していた時は血眼になっていたかもしれないが、それ以外の「オフ」の時は森で遊んでいたのだろう。当時は時間の感覚などないに等しく、天体の運行や日の浮き沈みを目安にはしていたが、一日に何度も寝たり起きたりを繰り返していたらしい。一方、産業社会に慣れ親しんだ私たちは、いつも時間に追われている。仕事や約束事などで予定は詰まっている。規則正しく定時に起床して、定時に食事をし、定時に寝るといったライフスタイルを送っている。しかし、失職したり、退職したりした途端、縄文人と同じ時間軸に戻ることになる。
狩りは計画的に行っていたと考える話と、本能的にしていたという話がある。道具作りや、武器の手入れ、動物の囲い込みなど入念に準備しなければ獲物を捕らえられなかったとするもの。後者は単に、食べ物が無くなったら探しに行く考え方。「まあ、探せばいるだろう」という楽観的な考え。狩猟採集民は、食べ物を蓄えていなかったとされる説が有力だが、近年はそうではなく、ハイブリッドに行っていたとする説や地域によって異なる説もある。北部の極寒の地では、冬に食料が取れなくなるため、漁業で食べ物を蓄えていたんだとか。
「時間」というものが売買に使われるようになったのは、ごく最近のことで、それまでは、「あること」をするためにかかる長さを時間として捉えていたそうだ。例えば、川からバケツを汲みに行く時間とか、お湯が沸騰するまでの時間とか。
失職すると、縄文人に戻るのは、人間が生物らしく生きていると言えそう。規則的な生活は、資本主義経済を効率よく回す上で生まれたもので、社会不適合者とは、まさにこのサイクルで生活できなくなった者を指す。『プロ倫』の修道院の規則的な生活。
「国破れて山河あり」
「国破れて山河あり」も、拠り所となる政治や経済が破綻した後、最終的に戻ってこられる場所は自然しかないということを意味する。もう一歩踏み込めば、「自然は決して裏切らない」といっているのである。
国語の教科書の定番。「知ってるけど、何の意味だ?」となるやつ。「国が無くなって自然に戻る」という意味の言葉だと思っていた。文化が崩れさった後に残るもの、みたいな意味。プラスではなく、呆然とした様子を表す言葉だと思っていた。
対話
人はどんな逆境にあっても、またどんなに孤独であっても、対話の相手を見つけることができる。それが自分の影や手であっても、木や石であっても、立派な対話相手になりうる。教会ではマリア像やイエス磔刑像を前にして祈るのと同じように、森の中の神々しい岩や樹木に向かって祈ることもできる。すでにそこでは他者との対話が成立している。人はいつでも宗教的な時間を持つことができる。神に向かい合う回路が開ける者は強い。最終的にめげないのは、超越的なものに直談判できるコネを持つ者である。特定宗教の信者になる必要 はない。教礼の命令に従わなくても、教団に献金しなくても、自分専用の神を持つことができる。
『夜と霧』でも、収容所から見える木が話し相手だったという話が引用されている。「病は気から」とも言うが、物質的に豊かでなくとも、精神性が大事。
犯罪
都市を徘徊する丨遊歩者《フラヌール》が増えたということは、氏素性のわからない見知らぬ他者ばかりの空間が生まれるということである。得体のしれない犯罪者も、都市を徘徊するようになるのだ。都市空間が脈絡のない雑多なイメージで溢れかえるようになるのは、犯罪が多様化するのと同時期であった。
ジャックザリッパーが活躍した19世紀のロンドンは、まさに産業革命によって都市が栄えた時代。人間関係が不透明化するから、犯罪の種類も多様化する。けれども、捜査スタイルが変わらない、変化に対応できないから未解決事件になる。なるほど。
言葉遊び
歩くことに関しては、無数の派生的動詞がある。特に二つの動詞をセットで結びつけた複合動詞は枚挙にいとまがない。食べ歩く、飲み歩く、探し歩く、拾い歩く、売り歩く、練り歩く、連れ歩く、ほっつき歩く、そぞろ歩くなどなど。「歩く」を「歩き回る」と展開すると、連れ回す、追い回す、付け回す、触れ回る、かぎ回る、逃げ回るといったバリエーションもできる。自分のオリジナルを作ることもできるだろう。
面白い。文章を書く上でも参考になる。
「ながら見」も、何かをしながら見るという動詞2つの言葉の総称。拾い見、流し見、探し見、歩き見なんかがあるんじゃないか。
散歩の効能
日常におけるさまざまなしがらみからの離脱。最初は一人で俯きがちに歩いていたとしても、行った先々で自分と同じような人間と出会い、「個」同士の交流が始まる。これこそが孤独の恩恵なのである。最初から内輪の仲間と丨連《つる》んでいても、こうはならない。「初めに孤独ありき」だからこそ、新たな仲間との出会いが発生する。
出会いは孤独から。今の時代は互いに孤独感を感じていながらも、人と人どうしのコストのかかる新たな関係性を作るのではなく、ネット上の薄い関係性を作る方に向かっているから、孤独から出会いが生まれないのかな。ネット上をぶらぶら歩いているという意味で、散歩しているのは変わらないかもしれない。
「ニッチ」
地球上には生物にとって多様な生息環境があり、それぞれの種はおのが生息に適した場所を占める。その生息場所や生息条件のことをニッチと呼ぶ。もともと、植木鉢や花瓶を置くような窓や壁のでっぱり、丨壁龕《へきがん》を意味していたが、生物学の世界でも使われるようになった。
自然調インテリアの置く場所が語源だった。「空きスペースの活用」と考えると、ニッチだなぁーと感じる。限られた場所をどう活かすか。狭いポッカリと空いたスペースのような意味で捉えている事が多いので、しっくりくる。
「道」
歩くとは、誰かの後追いをするということである。道があるのは、誰かがかつてそこを歩き、踏み跡をつけてくれたお陰なのだ。「道」はしんにょうに「首」と書くが、これは生贄の首のことなのである。人の踏み跡のない場所は魑魅魍魎の領分であり、そこに人が通る道を切り拓く際には、生贄を捧げて魑魅魍魎を鎮める必要があった。道を拓くには、犠牲が伴うわけだ。
「道」の語源って物騒なものだった。それから、しんにょうの漢字を考えると、「方向性を指すもの」が多いと思った。「進む」もある方向に向かうことだし、「遠い」も、どこか見えない向こう側だし、対義語の「近い」は見えているところ。「違う」や「避ける」も逆側に向かう言葉。「逆」も反対を示す言葉だし。あぁ、「遡る」も反対方向の言葉だ。サケの遡上は川の流れに反してすること。
思考
「思考するのは人間だけ」という思い込みは、生物学者や人類学者によって改められている。
人間が思考できるのは、脳が大きいから、と読んだことがある。知っている話と相反している。まだまだ分からないことが多いってことなんだろうか。
自ら歩く
生き延びるためには、自分から歩いて外に出ていかないと何も始まらない。歩けない人々から先に滅びてしまうのだ。
同著者が書いた『カタストロフ・マニア』では、ライフラインの停止、原発危機、新型ウイルス感染症の蔓延などが同時に起こった世界を書いたもの。この世界では、図書館の資料がライフラインになる。過去の歴史の蓄積が誰の手にもない、公共的なものだから。それが公共図書館を潰してはいけない理由。
工学系の資料を元に自分で文明を再生する。『Dr.STONE』の世界だと思った。謎の光線によって人類が石化し、約4000年が経った世界で、突如石化が解けた科学少年が、現代を取り戻す物語。この世界でも主人公が歩き回り、仲間を集めながら文明を再生しようとしている。
デフォルト・モード・ネットワーク
人は何か特定のテーマについて考えている時に限って、自分は思考をしているという自覚をもつかもしれない。しかしその実はもっと不埒で、同時に並列的にいろんなことを考えている。とりわけ放心状態でボーッとしている時というのは、自分では何も考えていないと思っているかもしれないが、単に特定テーマで考えていないだけであって、同時にさまざまな想念が浮かんでいる状態にある。散歩をして適度にリラックスしている状況で、自分の五感に入ってくる外部的な刺激には逐一反応をしているのだ。
デフォルトモードネットワークってやつですね。noteのネタもふとしたときに思いつきます。
ゆとり
心にゆとりがないと、ヒトは気宇壮大なことは考えられないし、未来を設計したりもできない。一側の脳で考えられることには限界があり、他人の脳味噌を借りる必要がある。本日も初めて訪れる街や見知らぬ他人からインスピレーションをもらうために徘徊に出かける。
先日書いた記事でも、ゆとりがないと色々考えられないことを書いた。
視野を広げるためにもゆとりが必要。そのための散歩。
読書=散歩、散歩=読書
読書も、テキストの森に踏み込み、コトバと出会い、刺激を受けるという意味では、散歩なのである。そして、散歩は街や山谷に埋め込まれた意味やイメージを発掘するという意味では、読書なのである。
歩いているときに考えることは、ジッとしていると出てこない事柄が多い。ランニングしていてもそうだ。帰ったらネタにしようと思うけど、気づいたら忘れている。そんな事が多い。書いていて思い出したのは、ランニング中に速度と距離が反比例する話。速度を上げればあげるほど長くは走れない。逆にチンタラ走るほど長距離を走れる。当たり前だけど、「反比例」って言葉がでてこなかったな、って毎回思ってる。