『君はどう生きるか』を読みました
鴻上尚史『君はどう生きるか』を読みました。
タイトルは『君たちはどう生きるか』をもじったもの。多様性が叫ばれる時代では、「君たち」と、ひとくくりにできないので、「君」はどう生きるかになっている。
おそらく中高生向けに書かれた本ではあるが、それ以外の人が読んでも、考えさせられる内容になっている。
以下気になったことを書いています。
1.コミュニケーションについて
もめた時の解決法
解決するには、同じだけのマイナスを互いに引き受けることが必要。
『共感という病』という本だっただろうか。
著者と内田樹の対談で、「全員一致の合意はあり得ない。みんなが同じだけの不満を引き受ける」というような、同じことが書いてあった記憶があります。
同じマイナスを引き受けるには、「対話」が必要。「ただ話す」のとは違う。「対話」した後には必ず、相手との関係性に変化が生まれる。
そういう点では、論破も同じ。終わった後に相手との関係性が変わる。
対話と論破の違い。対話の後は関係の変化の理由が分かる。なぜ関係が良くなったのか、悪くなったのか。論破は端から対話をすることを拒否されているので、関係の変化の理由が分からない。
対話をするのに必要なのは、みんなを引っ張るためのリーダーシップではない。
令和のリーダーに必要なのは、議論を導くファシリテーター。ファシリテーターは議論のプロセスに責任を持つ。
話がまとまらないとき、互いにとって一番なにが大切かを考える。互いに重要視しているものは何か。そこから対話は始まる。この議論をしやすいようにするのがファシリテーター。
対話じゃ決まらないから、多数決で決める。でもそこには危うさがある。みんなで万引きすることに決まったら万引きするのか。自分が怪しいと思っていることに対して、他のみんなが「やる!」と言ってるからやっていいのか。私は、「人の意見に流される」という悩みを持っている人はここに原因があるような気がしている。
政治の世界でも多数決で決まることが書かれている。読んでいて鋭いツッコミだと思った。それは議論している時間がないから、というのが答えだが、逆に多数決に持っていくために議論時間を伸ばしているまであるのではないかと思ったりした。
シンパシーとエンパシー
シンパシーは、同情、思いやり。エンパシーは、相手の立場に立つ能力、共感力。
「自分の嫌いなことを相手にしてはいけない。自分の好きなことを人にする」
これは、シンパシー。思いやりや優しさ。前提として、自分と相手は同じだということ。だけど、多様性の時代は違う。誰が何を好きなのか分からない。
「孫におもちゃを買い与える」「被災地に千羽鶴を送る」これら2つも、シンパシー。自分がもらったら嬉しいと思って、送っている。
「人に迷惑をかけない」も一緒。なにが迷惑か分からないだから、対話が必要。
今の時代はむしろ、「分かり合えることが奇跡」だと言う。「相手が分かってくれない」と思うのは、「分かり合えることが当然」という認識があるからか。
じゃあ、相手を分かるにはどうしたらいいのか。エンパシーを育てるにはどうしたらいいのか。
ゲームや演劇、歴史を使って、物語や過去の人物に感情移入することで育てる。
振り返ってみれば、小学校で必ずやる劇って相手の心情を理解するためのものだったのか、今更ながら思う。私はセリフ言うタイミング、内容を間違えないように覚えることで必死でした。劇の内容うんぬんまで頭が回っていません。こうやって考えてみれば、劇という全体の仕事を行うためのマニュアルを覚えていただけなのかもしれない。
2.「考えること」について
考えることと悩むこと
「考えること」と「悩むこと」。数年前にこれと同じ考えに気づいたけど、結局行動できていないから、あいかわらず「悩んでいる」だけだなと感じる。
「夢を夢で終わらせる」か、実現できるかは、こうやって、夢に向かって実現可能なステップを自分で作って実行できるかにかかっているとつくづく思う。
言葉にすること
どっちを先に投稿しているか分からない。『文學界』2024/10の小川哲『小説を探しにいく』でも、物語の分かりやすさは、読み手と語り手の情報量の差として説明されていた。
言葉にすることは嘘。相手に分かってもらうための嘘。というのは、小説で考えてもクリティカルに効く。話を面白く、引き立てるために時系列がごちゃごちゃになっていることはよくある。読んでいて、冒頭の展開はここだったのかと、読者に気づかせる場面。このハッとさせられる感覚も物語により引き込まれる。
変化が嫌い
さっきのエンパシーの話から考えるに、「演じる」のだから、自分でなくともいいような気もする。演技を通して、自分がどうすべきか、ということについては、町屋良平『生きる演技』や岩井圭也『舞台には誰もいない』にも通ずるものがある気がする。
比べる
悩んでいてベストが見つからないときは、ベターを。ワーストから抜けるにはワースを。
最初からベストを探そうとするけれども、やっているうちに変わっていったりする。だけども、最初からベストを狙って動けない。とても刺さる。
例えば、毎日の晩ごはんもベストよりベターを選ぶことが多い。「ハンバーグが食べたい!」と思っても、家になかったり、作る気が起きなかったりする。ベストなのは「ハンバーグを食べること」。だけれども、時間や手間、気持ちを天秤にかけた上で他の選択肢を取ることもある。本に書いてあることとは少しズレているけれども、ベストな選択肢を取れない時、ベターな選択を取ることは日常的にある。
「めんどくさい」
考えることを邪魔する「めんどくさい」。
「めんどくさい」を口にするたびに人は腐っていく。人がよりよく生きていくためには、「勇気」と「好奇心」が必要。「めんどくさい」は好奇心を殺す。めんどくさいと感じたら動く、そうすれば何かを得る。何かに出会う。その積み重ねが人を変える。
どこかで「やりたくないなら、やるな。めんどくさいなら、やれ。」ということを聞いたことがある。めんどくさい積み重ねがやる気を失わせる。ここで書かれていることも同じ気がする。
自我と集自我
何かを始めるときに、「誰かと一緒に…!」という人が多いと思っている。私は怖いものの、やると決めたら1人で勝手に突っ込んでいくタイプ。しかし、全く興味のないもの、むしろ嫌いなものも誰かと一緒なら「まあ、やってもいいか」と折れるタイプでもある。
そういう意味では、誰かと一緒なら頑張れるのも理解できる。「自分が自分を支える」。今の時代には必要なことだけれども、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』がちらつく。自分を救えるものではないと、神からも救ってもらえない...。
正解のある勉強をする意味
お茶の例が紹介されている。目の前のコップを見て、「透明なコップに濁ったお茶が入っている」「200mlのコッブに半分のお茶が入っている」「中国産のコップに静岡のお茶が入っている」と、国語、数学、社会の知識から、目の前のことに対して多様な見方ができる。
あまりこういう視点で考えたことがなかった。正解のある勉強は、点を打つだけで、線になりにくく、体系的な知識にならないと感じていた。学校を出てからは勉強するにしても教科書は全く読まなかった。事実が書いてあるのは間違いないが、事実と事実を結ぶ説明がなく、頭に入ってこない。
この例だと、目の前にある「液体の入った器」が知識を結びつける役割をしているのだな、と。
大学に行く理由
今よりも漠然と時間を使っていた記憶があります。それこそ「どうしよう…」と。でも、暗記するのが大学の勉強ではないことは認識できました。
3.スマホについて
「自意識」
自分が周りにどう思われているか考えてしまうこと。「自分で自分のことを考えてしまう状況」。
SNSの影響で、人生の大切なことが「自分でどう生きるか」ではなく、「他人にどう思われるか」になってしまう可能性がでてきた。
自意識に目が向いてしまう。それは思ってしまったらどうしようもない。何かを体験したとして、相手に好かれるためのエピソードではなく、自分が「面白かった体験」に集中して、それを伝えることが大切。
友達が何を面白いと思ってくれるか分からないし、考えれば考えほどよく分からなくなってしまった。どれを楽しく思ってくれるかはみんなが違うので、自分が面白いことを伝える。
SNSの反応の、なんとなくの反応なのか、とても面白くて反応したのか、私たちには分からない。それに振り回されても仕方ない。
半年以上前に読書感想や会話について書いた記事でも、自分が印象に残ったワンシーンについて書く・話せばいいと書いている。
そういった意味では、この記事は私以外には不親切なものになっている。
自分を変えてくれること
ロンドン旅行で見かけた日本人旅行者が「ロンドンがつまらなかった」と言っていた。それは、ずっとスマホを見ているから。スマホを見続けての旅行は毎日の生活の延長線上。安心するかもしれないが、観光地を本当に感じるためには、不安、戸惑い、混乱が必要。
自分の旅行はGoogleマップなしでは歩けなかった。道に迷ったし、途中でスマホの電源が落ちてホテルに帰れなくなりそうにもなった(駅員さんに道を聞いて無事に帰れました)。
十分楽しめたと思っているが、これも日常の延長線上なのか。
4.自信を持つためには
自信のつけかた。誰にお墨付きを貰えば、自信がつくのか。キリがない。
上達する人は、人を丁寧に観察して、真似る。「自意識」が強い人は、他人を見て落ち込むだけで、観察はしない。
自信は、周囲との相対で作られる地図の立ち位置で決まる。自分の地図ができて、自分の位置を客観的に知ることができて、自信は生まれる。
完璧主義
大谷翔平や、イチローでも打率は0.3。つまり、3回に1回しか出塁できない。これでも1流。8割出塁できるとかではない。3回に1回の成功なのだから、肩肘張らないでリラックスしてやる。
変えられることと変えられないこと
今、地震が起きたり、ミサイルが落ちてきたとして、自分に変えられることはあるのか。対策したとして防げるのか?
それに悩んでいることは時間のムダ、エネルギーのムダ。意味がない。
ムダと言われても、納得するまでムダにしてから進むことも大切だと思っている。
ありたい自分
SNSでの見せている自分と、現実の自分の差。埋めるためには、ありたい自分像への道筋を細かく分解して、一歩ずつ進むこと。
昔、ややこしく似たようなことを書いた。
同じ意見を見つけて、安心することは確証バイアスかもしれないが、それでもいい。
5.友達について
本当の友達とは?
「本当の友達はどうしたらできますか?」
・そもそも友達が欲しい理由は?
・1人になるのが嫌?
・友達がいないことがみじめ?
これら3つの理由から友達を作っても、「本当の友達がいない」ことで苦しみます。では、「本当の友達がいない」のと、これらの理由を天秤にかけた時、どっちが嫌ですか?
どちらもマイナスでしかない。けれども、よりマシな方を選ぶ。
無意識にこの選択をしているかもしれない。私には、付き合いで付き合う友だちはほとんどいない。
「他人」と「他者」
親の「勉強しろ!」は受け入れたいけど、受け入れたくない。しかし、受け入れられないけど、受け入れないといけない。友達の提案を受け入れないと、友達との関係を続けられないと葛藤するのも他者。キレて関係を終わらせるのは他人。
ネットで論破を繰り広げている人たちは他人なんだろう。
これから逃げているから、もめた時に0-100しかないのかもしれない。
8.大人について
年齢と大人
精神的な自立とは、答えのない問いに向かって自分で考えて、根本を疑い、合理的に向き合っている人のこと。経済的な自立はそのまま。お金を稼いで生きていくのか、専業主婦(夫)になるのか。
長くなりましたが、こんなところで。