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【4】筑波大学を中退して旅に出た話④

大学を中退して、沖縄の離島でリゾバして、海外バックパッカーになるまで。
ここまでずいぶん遠回りしてきてしまったけど、いよいよ大学中退編、佳境に入ります!



【前回までの概略】


↓ある友人との出会いから、ぼくは「本当の学び」を見つけました。

↓まちづくりサークルに入り、人と人との繋がりについて考えました。
そして、休学・転向を経験した先輩に会いに京都へ。

↓塾講師を辞めてサイゼリヤバイトを始める。
インテリ的な生き方から外れ、新しい自分を見つけました。


オープンキャンパスの苦悩


8月にあるオープンキャンパス。
これが退学を決意する決定打となりました。

1年次に興味本位で、知識情報・図書館学類(KLiS)のオープンキャンパス実行委員をやりました。
「後期入試で入った(つまり、第1志望ではなく滑り止めだった)のに学類のPRなんてやっていいのかな」とも思ったけど、実際は後期入試の説明があるため後期で入った人が委員に必要だったようです。

↓KLiSについてはこちら

受験生の視点からしても、「最初からここに決めていた」という人だけでなく、「色々あってここに来たけど、実際ここに来てよかった」という人の意見があった方が参考になることもあるかも知れません。

1年次のオープンキャンパスでは、ぼくも結構いいことを言ってて(自分で言うな)。
「結果的に志望していた大学には受からなくても、そのために勉強したことは自分の糧になる。
そして、縁があって進んだ進路に、自分の人生にとってかけがえのない出会いがあるかも知れない。」

みたいなことを話した記憶があります。

これは、ぼく自身の京大受験不合格と筑波大学入学の経験に根付いた言葉です。

↓京大受験についてはこちら

↓かけがえのない出会いについてはこちら

多分、KLiSのHPにYoutubeのアーカイブが残ってるんじゃないかな。
2022年度と2023年度のStudent Talkに、ぼくが出演しています。
ここでは、あえてリンクは貼りません。

それで、本題はここからなんだけど。
オープンキャンパスは、主に1年生と2年生によって運営されています。
だから、今年度参加した1年生の内の誰かが翌年度も参加して、前年度以前からの引き継ぎをしたり、各部署の代表を務めたりします。
代表になると、スケジュール管理とか先生とのやり取りとか、色々面倒そうだからあまりやりたくなかったんだけど、代表から直々に「次年度の代表をやってくれないか」とお願いされてしまい、しぶしぶ引き受けることにしました。

これは後になって本当に悔やみました。
この時はまだ、1年後自分が大学を辞めることになろうとは思ってもみなかったのです。

筑波大学構内

仕事を引き受けてしまったからには、責任を持ってやらないわけにはいきません。
委員はそもそも人数が少なくて、自分の代わりを見つけることはできませんでした。

だから、休学にせよ退学にせよ、このオープンキャンパスが終わるまで待たなければならない。
しかし、大学を辞めようと思っている人間がオープンキャンパスをやるという自己矛盾に精神が蝕まれ、そのことを誰にも打ち明けることができませんでした。

2年次になって周りは徐々に専門色を強めていったり、研究室やインターンを考えるようになってきて、より一層自分と周囲の相容れなさが際立ってきました。
別に学友と仲が悪かったわけではありません。
ただ、本当に自分がやりたいことをそのままに話すことができず、いつもどこかで自分を取り繕わなければいけなかったのです。

みんなから「てんてんはこれからどうするの?」と聞かれました。
院進するのか、就職なら民間か公務員か研究職か。
ぼくは「変わり者」とか「物事を深く考える人間」として周囲から認知されていたので、「何も考えていない」という答えでは怪訝そうにされました。

知識欲の沼

大学に通うことがつらくなってきた頃、バイトはささやかな救いでした。
忙しく働いている間は、色々なことに頭を悩ませなくて済んだからです。

勿論、バイト先にも人間関係はあって、「この人ちょっとめんどくさいな(^_^;)」と思うことはありました。
しかし、あくまでも「仕事上の関係」なので、お互いにプライベートまで踏み込むことはありません。
だからこそ、自分の考えや価値観について、嘘をつく必要がなかったのです。
また、仕事上の関係は、労働時間外では相手のことを考える必要がないし、短い雇用期間が終わればサッパリと縁を切ることができます。
だから、楽な気持ちで付き合うことができました。

職場の人達はぼくのことを「バイトの◯◯(苗字)さん」としか見ていないし、客もまたぼくのことを「サイゼリヤの店員さん」としか見ていません。
ここではぼくのそれ以外の要素は全部関係なくて、ただサイゼリヤの店員であるぼくを頼りにしてくれる人がいる。
それが心地よかったです。

↓サイゼリヤバイトについてはこちら

一方、家にいるときは、大学の課題もそこそこに、ただひたすら本を読みました。
いつもは1冊読み終えてから次の本を手に取っていましたが、このときは数冊を並行して読んでいました。
数学や世界史、イスラーム文化など、様々な学術的教養の本です。
毎日本屋に通い、本の背表紙を眺めることにワクワクしていました。

このときのぼくは、知識に餓えていたのです。
そして、何か自分の価値観を大きく変容させるような発見を求めていました。
今まで自分が全く知らなかった世界に触れてみたい欲求がありました。
それを強く求めるほど、日常が乾いていたということでもあるのでしょう。

「知識を求めることは良いことだろう」と思うかも知れませんが、この話には裏があります。
これも労働が楽であることと同じ理屈です。
人は考える生き物です。何かを考えざるを得ません。
このときのぼくにとって、その思考する対象が将来の進路や日常生活であるよりも学問である方が楽だったのです。
頭の中を数式や自然法則や哲学者の思想でいっぱいにしてしまって、他のことを考えられないようにしたかったのです。

普通は勉強から逃げたいと思うのでしょうけど、勉強が好きな人間にとっては、勉強に打ち込むことは一種の現実逃避なのです。
同じようなことは以前にもありました。
ぼくはコロナ禍の最中、当時付き合っていた彼女にフラレました。
傷心の中、人との繋がりを求めることもできず、家にいても暇で、じっとしていると動悸が収まらないから、もうひたすら勉強するしかなかったのです。
当時受験生で大きな目標があったことが幸いしました。
しょうもない話です。笑ってください。

ぼくは今ここにないものを求めていて、自分を見失っていました。
それまでも苦悩することはたくさんあったけど、今までのぼくは、たくさんの苦しみを乗り越えてきて、自分の弱さや痛みと真っ直ぐに向き合ってきたからこそ今の自分があると、誇りに思っていました。
しかし、このときのぼくは、自分が苦しんでいるという事実から目を背けて、つらくないフリをしていました。
目先の快楽に酔いしれることで、「自分は苦しんでない」と本気で思い込んでいたのです。

そのことに気づかせてくれたのは、「てんてんらしくないよ」という友人の言葉でした。
「夢みたいなことばかり語って現実を見ていないのは、鬱の症状だよ」と。
実際には、鬱ではなかったと思います。
診断を受けても何かの病名は出てこなかったと思います。
しかし、ある意味では、いわゆる躁鬱の「躁」のような状態だったとも言えます。
そのまま放置していたら、どうなっていたかは分かりません。

ぼくは特別優れた何かを持っているわけではないけれど、自分自身と向き合えるということだけが、自分を誇れる強さでした。
自分で言うのもなんだけど、そんなぼくが自分を見失っていて、しかも、それを自分で気づけないというのは、てんてんという人間にとって絶対にあり得ない異常事態だったのです。

それに気づいたとき、「このままではいけない、一刻も早く筑波大学を去らなければ」と強く思いました。

グッバイ、図書館オタクたち

KLiSの前身、図書館情報大学のお墓

オープンキャンパス当日、学生相談のブースにて。
自分の愛を熱く語る受験生と、それに返答する図書館オタクたるKLiS生。
「夢中になれることがあるのはいいことだ」と微笑ましく見つめながら、同時に彼らと自分は決して交わることはないのだと切なく思いました。

「本」が好きであることと、「読書」が好きであることと、「図書館」が好きであることは、全て重なり合いながらどれも微妙に違っています。

紙の質感やページをめくる感覚。
モノとしての本を愛でるなら、それはただのコレクターに過ぎません。
紙の本が好きな人はそれを大切にすればいいけれど、その思いだけでは社会一般に紙の本を残す理由にはなりません。
ある面においては、電子書籍の方が優れていることは間違いのないことです。

あるいは、読書という行為について。
本を読む一番の目的が、エンタメとして本の世界を楽しむことであってもよいと思います。
寧ろ、仕事で必要な知識を得るとか、知識人としての教養を身につけるとか、そうした目的意識によらず純粋に読書を楽しむことが本来あるべき姿だとも思います。

しかし、本の中の世界が現実世界と全く関わり合わないものだとしたら、私達は何のために本を読んでいるのでしょうか?
作品には作者からのメッセージが込められています。
フィクションは現実とは違うけれど、時にフィクションは事実よりも多くの真実を語ります。

物語の主人公が色んな世界を冒険することにワクワクしたのなら、あなたも部屋の中に引きこもってはいられないはずです。
物語の世界で自分と年齢の変わらない少女が一大決心をして、その姿に感銘を受けたのなら、あなたもまた自分の人生を変える努力をするべきです。

それをやることを純粋に楽しみながら、その中で得た気づきや学びが人生を豊かにしていく。
これは読書だけでなく、勉強もスポーツも芸術も仕事も、全てのことがそうであるべきだと思います。

しかしながら、世の中の「読書好き」の多くは、本の世界に閉じ込もりがちであるように思います。
現実から目を背けていたり、社会に嫌気がさして人との関わりを絶とうとしていたりします。
あるいは、自分自身には能力や勇気がなくて出来ないことを、フィクションのキャラクターが代わりにやってくれることで欲求を満たそうとしていたりします。

このように、ぼくは「オタク」に対して厳しい目を向けています。
でも、オタクであることが悪いわけではないです。
ぼく自身もまた、一種のオタクだと思います。

問題なのは、オタクたちが作品をただ受動的な姿勢で受け取って、一時的な気晴らしのために消費していることです。
オタクの真にあるべき姿とは、作品を自らの視点で解釈し、それを自分の生活に落とし込んだり、自らもまた発信するという、主体性と創造性です。

それから、図書館という空間について。
あるいは、図書館司書や司書教諭(図書室の先生)について。
KLiSに来る人の多くは、図書館や図書室について個人的な思い入れを持っています。
たくさんの本に囲まれた図書館の居心地のよさだったり、クラスで孤立していたときに学校の図書室が自分の居場所になっていたことだったり。
それから、そこで出会った図書室の先生が優しくしてくれたことだったり。

しかし、厳しいことを言いますが、自分の「好き」という個人的な感情だけで、仕事をしてはいけないと思います。
自分の好きなものがみんなにとって必要なものだとは限らないからです。

あなたが地域の図書館にこのまま変わらないでいてほしいと願っても、より多くの利用者のためには作り変えていくことが必要かも知れません。
いくら紙の良さや空間の居心地のよさを語っても、より多くの人が情報にアクセスできるようにするためにはオンライン化は欠かせません。
大事なのはあなたが好きな図書館ではなく、社会に必要とされる図書館なのです。

これからの社会のためには、今ある図書館とは別の形のものが求められるかも知れない。
そのことを分かっていたから、筑波大学は既存の「図書館情報学」を更新して「知識情報学」を打ち立てたのだと思います。
しかし、肝心のKLiS生は、そのことをよく分かっていない、ただ図書館が大好きなだけのオタクたちだったから、決定的なズレがあるのです。

また、学校の先生や図書館の司書になりたいという人は、「あの先生/あの司書さんがすごくいい人で、自分もそうなりたいから」という動機の人が多いです。
しかし、これも本質的ではないと思います。
全ての教師や司書がその人のように、親切で誠実な人間ではないでしょう。
また、逆に教師や司書でなくても、そのような姿勢や価値観を持った人はいます。

だから、あなたがするべきことは、教師や司書になるための進路選択ではなく、憧れの人に近づくための人間形成なのです。
職業選択をするのなら、その仕事が社会においてどのような役割を果たしているか、その適性が自分にあるのか考えなければなりません。

司書の仕事の一つとして、利用者のニーズに合った本を探す手伝いをするというものがあります。
そのためには、まず自分が様々な領域に精通している必要があります。
だから、本来司書になるなら図書館の勉強だけしていてはいけないのです。
図書館情報学こそ、真の学際性が求められるのです。

さらに、それは学術に限ったことではなく、図書館の利用者が持っている関心は趣味や仕事に家庭や恋愛と多岐に渡ります。
そうなると、ただ勉強をしてきただけでなく、幅広い人生経験がなければ、適切な本を紹介することはできないでしょう。
まあ勿論、そんなすごい司書は世界中探してもほとんどいないだろうし、そこまでいくと司書の枠に収まらず本を貸し出す以上のことをしそうですけどね。
本を読むことだけが何かをしたり勉強したりする方法ではないですから。

以上、KLiS批判でした(⁠^⁠^⁠)
根本的に思想が食い違っているのです。

だから、大学の友人と一緒にいても、自分が本当に思っていることを打ち明けることはできない。
そうして口に出すことが無くなると、自分でも自分が本当に思っていたことが分からなくなってしまう。
このままでは自分が擦り減ってしまうと思いました。
自分らしく生きるためには、自分がどのような人と関わり合うかが大切なのです。

ここで過ごすこともそれなりに楽しかったけど、自分はたくさんのそこそこ仲が良い人に囲まれるより、心から尊敬し信頼できる人がたった一人でもいる方がいいなと思いました。
そして、ぼくにとってのその一人が大学を辞めて沖縄に旅立ったなら、ぼくが取るべき行動は決まっていました。

↓無二の友人の旅立ち

オープンキャンパスが無事に終わったその数日後、大学の事務へ行って退学届をもらいました。



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