
2502_労働の思想史
「労働の思想史」を読了。
“人間はなぜ働くのか?”という問いを立て、原始時代から現代に至るまで、地理、制度、文化、宗教、技術といった複数の観点から各種理論を引用しながら著者が独自の持論を展開している内容。
冒頭では、狩猟採集社会における労働の必然性や、原始的な働き方の中に見出された自然との一体感と創造性が論じられ、次第に古代ギリシアの自由人が労働を軽んじた価値観、中世における修道院での労働が精神修養の一端として評価された様相へと議論は進む。
そして、産業革命以降の変革期において、マルクスの疎外論やアダム・スミスの労働価値説、さらにはニーチェやハイデガーの思想などを通じ、労働が単なる生計の手段から、自己実現や社会参加の重要なプロセスへと再定義されていく過程が詳細に解説されている。
本書は、複数の要因が複雑に絡み合っているため、特定の決定的な答えを提示しているわけではなく、やや冗長な印象を受ける部分もあるけど、その冗長さを差し引けば、非常に興味深く学びの多い内容だった!
個人的には、マルクスの「疎外論」やアダム・スミスの理論、さらにはニーチェとハイデガーの視点が非常に印象的で、これまで触れてきた新マルクス主義の議論をちらりと呼び起こすとともに、古代の自由人と中世の修道院労働、そして現代の「勤勉さ」と革新の価値観の違いに対する洞察が、特に現代の企業経営者にとって、組織文化の再構築や社員の自己実現を促すためのヒントとなる内容だな〜と感じた。
現代の急速なAI革命とナショナリズムの急速化の中で、従来の「働く=苦労」という固定観念を超え、ヒトが働く喜びや意味を再発見するための哲学的指針として、本書から幾つかの示唆をもらうことができたかもしれない。
良書でした!
以下、学びメモ。
ーーーーー
・旧石器時代には人間は道具と言語を使って、長く厳しい氷河期をやり過ごすことができた。狩猟という活動は、単独で行ったのでは効率が悪く、人々が集まって協力することが重要だった。狩猟活動が中心と占めるこの時代には人間の精神と労働の歴史において幾つかの重要な変化が発生した:
①ラスコーなどの壁画に絵画が描かれるようになったこと。動物たちの写実的な像を描くということは、動物を捕らえて殺す行為を象徴するものと思われていたようである。
②この時代において死の意味が考察されるようになり、宗教が誕生したことである。これは人間が死者を葬る儀式を始めたことに顕著に示されており、人類における宗教性の発生を告げるものであった。
③人々が狩猟のために個人ではなく集団として行動することを学び、その集団を率いる指導者を見出しことである。これが文明社会と国家の萌芽となる。
・紀元前6000年頃から7000年頃に世界の各地で新石器の利用が始まり、二つの重要な文化的な進展が見られた。農業に適した穀物の栽培のための菜園の活用と、余剰の農産物を蓄積するセンターとしての都市の形成である。
→★この時代には定住することで、新しいタイプの人間と労働が誕生した。定住することで、人々は家に住むようになり、様々な動物を家畜として飼い慣らすようになった。最初に飼い慣らされたのは人間そのものであった。穀類の栽培化に伴って、食物の調整に根本的な革新があった。パンの発明である。★
・★社会組織の観点からは、この新石器時代には王権が誕生したことが注目される。穀物の生産性が向上して余剰な産物が都市に集中されると、それを保管するための巨大な倉庫が建築される。そしてこうした倉庫に保管され、配分された穀物の量を記録するために文字が発明され、文字を操る官僚的な組織が誕生した。そして、文字を操る人々は、農業と穀物の生産にとって枢要な天文学の知識を獲得し、駆使するようになる。そして、そのような人々に農民たちは敬意を払うようになり、文字を操る人々から神官層が誕生した。そして、その中から、彼らを統御し、対外的な戦争を指揮する勇ましい武人としての存在を兼ねた王が誕生することになる。★
→王権の有効性は、まさに狩猟人の略奪的な武勇と指揮能力と、聖職者の保持する天文学的な伝承と神の導きに依拠するものであった。
→このような労働制度は、ローマ帝国からフランスの絶対王政に至るまで、これからの人類の歴史における労働の過酷な歴史を貫くものとなるだろう。これが変化してくるには、フランス革命以降の国民国家における資本主義的な労働の誕生を待たねばならない。
・★アリストテレスは人間の行為の営みを、行為の対象との関係という観点から大きく三種類に分類する。これらの営みは"それ以外の仕方においてあることができないもの"を対象とする行為であるか、"それ以外の仕方においてあることができるもの"を対象とする行為であるかという違いによって区別されている。言い換えると、存在のうちに必然性を備えているもの、すなわち天体のように"永遠なるもの"を対象とする行為であるか、自然の産物のように偶然性を備えているものを対象とする行為であるかの違いである。★
→制作と実践はともに偶然性を備えているものであるが、両者の違いは、政策は何かを作りだすという目的を持っているが、実戦はそうした別の目的を持たず、行為そのものが目的となっていることである。
①制作→人間は自然の事物に手を加えて何かを作り出すのであり、それぞれの事物のあり方という偶然性に相応しいかたちで、対象に働きかける必要がある。この制作の営みには"労働"と"仕事"の両方が含まれる。
②実践→人間が他者との間で行う行為であり、道徳的な行為や思慮などの活動も含まれる。この行為は他者との関係という偶然的な要素を含むものであり、その代表が政治活動である。③観想→"それ以外の仕方においてあることができないもの"すなわち、必然的で永遠のものを対象とする活動である。これは天体などを眺めて、その運行の規則を調べたりする行為であり、そこから生まれるのが個々の学問や理論である。
・奴隷や職人は、自然の事物や人間の生活に関わる制作に従事する。自由な市民はポリスの公的な事柄を担う政治において実践に従事するか、さまざまな事物や人間や髪について必然的な事柄を認識する観想に従事することになる。
→人間の行為のうちに労働と仕事、公的な営みと活動、思索と観想という観想関係が成立する。これに合わせて三種類の人間像が生まれる。これらは、労働に従事する奴隷と仕事に従事する職人、活動に従事する政治家、思索に従事する哲学者であり、そのうちでは労働が最も卑しい営みであり、思索が最も望ましい営みであるの見なされることになる。
→★この三種類の人間像は、その後の西洋社会では聖職者、戦士、農民という3つの階級として表現されることが多かった。近代以降は人間のすべての活動が仕事という観点から見られるようになったが、それ以前は、人間の活動の質的な違いは明確に意識されたものの、全ての活動を生活の糧を得るための仕事とみなすことはなかった。★
・中世のキリスト教社会において奇妙な状態が発生する。キリスト教の聖職者たちのうち最上位の観想に従事すべき人々が、同時に最下位の労働に従事するようになったのである。この事態を生み出したのが修道院という制度である。
→★労働の思想にとって重要な影響をもたらしたのは、この修道院という制度において宗教者が戦士や農民のような役割も兼ねることになった。身体の労働に精神的な意味が与えられたことが、労働の思想史において重要な意味をもたらすことになった。修道士たちにとっては命令されることで労働をすることになったため、労働することは服従の精神を示すということだった。★
・修道院での労働には複数の利点が備わっていた:
①修道士たちに服従の精神によって労働させることで、修道院は自立した経済的な基盤を確保することができた。修道士たちの農耕の営みによって修道院は食糧を自給できた。貴族に頼らずに生活を維持できることは修道院の精神的な独立を維持するためには重要であった。
②修道士たちの労働は時計による一日の規則的な規律にしたがって遂行された。修道院で改良された時計は、外部に伝達されて日常的に使われるようになる。それだけではなく、町全体が時計塔の音に合わせるようになった。
③修道院の規律化された労働は、それまでの労働に備わっていた様々な否定的な側面(労働の細分化、階級的搾取、差別、生涯に一つの職業や役割の固定化など)を解消するという効果を発揮した。
④労働そのものと労働の成果は、修道士たちの間で公平に分配された。
⑤修道院において様々な技術的な発明が行われた。例えば、粉を挽く水車の発明。
・資本主義が開花するためには、労働そのものが肯定的なものとして積極的に評価される必要があった。労働そのものに対する評価が向上するのと並行するかのように、資本主義と市民社会の時代である近代の幕が開ける。次の三つの局面で労働の意味が新に考え直されるようになった:
①宗教的な側面→マルティン・ルターとジャン・カルヴァンによる宗教改革、その後のプロテスタントの諸宗派の活動は、それまでのカトリックの修道院における労働の肯定的な評価と異なる観点から、労働を聖なるものとすることに貢献したのである。
②経済学的な側面→国家の富を増大させるという経済学(アダム・スミスには始まる労働価値説の理論)にとって重要な課題を実現するために、経済の理論はすべての商品の価値を労働に求めるようになっていく。
③哲学的な側面→トマス・ホッブズからイマヌエル・カントに至るまでの哲学者において、主として社会契約論の枠組みで、国家や社会の形成における労働の意味が新たに見直されることになる。更にゲオルク・ウィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルにおいては、労働の人間学的な意味が重視されることになる。
→★これら三つの側面を統合する形で登場したのがカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの労働論である。★
・マックス・ウェーバーは、宗教改革の創始者であるマルティン・ルターにおいて初めて、それまでは神に召されること、すなわち聖職者としての生活を過ごすことを意味した召命というドイツ語が、天職としての職業を示すことに使われたことに注目した。
→人々が修道院でクラスような俗世を離れる宗教的な生活を送るのではなく、様々な世俗的な職業に従事すること、すなわち社会で働くことにそのまま宗教的な価値が与えられたのである。
→ただし、ルターのこのような召命としての職業思想は、それまでの生活の在り方そのものを変革するのではなく、社会のうちでの人々の地位をそのまま維持することを求めるような保守的な考え方が潜んでいる。特に信徒である農民たちが社会的な変革を求めるようになると、既存の秩序の変革を望まないルターは保守的な傾向を強めていくようになる。
・ルターのこのような保守的な傾向を打破し、近代の資本主義社会に相応しい労働観を作り出すことになったのは、ジャン・カルヴァンとカルヴァン派の思想家たちの功績だった。カルヴァンの宗教思想の基本的な教義は「予定説」だった。
→予定説とは、「恩寵による選びの教義」と呼ばれるものであり、特定の信徒が救われるかどうかはすでに神が恩寵にとって定めているのであり、信徒が現世でどれほど信仰深く善行を積んだとしても、それで神の選びを変えることはできないという理論である。この教義は以下の影響を与えた:
①信徒たちは内面的に完全な孤独を感じるようになったことである。外部からのいかなる援助も救済をもたらすための助けとはならない。
②このような内面的な孤独のうちで信徒たちは自分が救われているという何らかの確証を求めるようになった。
③信徒たちは自分たちが選ばれた人であることを内面に確信するだけでは足りず、そのことを示す外的なしるしのようなものを求めるようになり、勤勉に労働に従事することが推奨された。
・★やがて市民社会が成熟してくると、この勤労の背景にあった宗教心は忘れられてゆく。こうして労働は来世における救済を確保し、保証する行為ではなくなり、労働する行為そのものが人間にとっては富をもたらす好ましい営みと見做されるようになった。★
・アダム・スミスは、人間の社会がそもそも形成されるのは、人間が労働することによってであり、それぞれの人は自分の得意な労働分野で特に力を発揮するものであると想定した。そして様々な能力を持つ人々が集まって分業し、その生産物を交換するために社会というものが形成されると考えた。社会の形成の根幹は人間の労働とその産物の交換にあるとみなしたのである。
→ところで、スミスによると、労働が生み出す価値は、労働者が生存するために必要な物資の価値と資本家の利益となる価値である。すでに確認したように、製造工の労働は一般に労働対象の原材料に、自分を維持する価値と雇い主の利益になる価値を付け加えるのである。商品の価値は労賃、資本、地代で構成されるのであるから、商品の真の価値は「その国の土地と労働による生産物の交換価値」ということになる。このことは、スミスではまだ真の意味で労働価値説が確立されていなかったことを意味している。土地は労働とは別の価値の源泉とされているからだ。
→これに対して、すべての商品の価値の源泉が労働であることを指摘したのマルクスの資本論である。
・ホッブズは万人の戦争状態を終結させ、社会を構築するには、人間たちは社会契約を締結せざるを得なくなると考える。人間が社会を構築するのは、伝統的な社会思想において想定されたように人間のうちにそのような自然傾向があるからではない。自分の欲望を実現するため、自分の労働によって獲得できるはずの勤労の果実を保護してくれる法を定めるためである。
→★労働は社会と文明の土台を獲得するものであり、人々が安心して労働することができるように、国家を成立させるために社会契約を締結する必要が生じたとホッブズは考えたのである。★
・ロックは、個人の身体の所有権に基づいて、その身体の労働によって獲得したものに対して各人の所有権が発生することを指摘する。「身体の労働と手の働き」こそが、個人に所有権を与えるのである。この権利は労働の産物だけに限定されず、耕した畑は彼の労働が投入された場所であり、その所有権もまた労働した者に与えられる。こうして私有財産の制度と権利が生まれるのである。
→★ロックはホッブズと同じように各人の所有権を保護するために社会契約が締結される必要があると考える。国家の設立の目的はホッブズと同じであるが、ホッブズが暗黙のうちに労働の産物によって生まれるとみなした個人の所有権を、ロックは明示的に労働の概念を定期することで確立する。ここにおいて近代の労働概念が所有権と国家の設立の根幹をなすものとして、明示的に定められたのである。★
・カントは人類が根源的な素質を発揮して、公民的な社会体制を構築するのが人間の最終的な目的であると考えたが、そのためには辛い労働のうちで自らを訓練する必要があると考えた。カントは更に人間が労働することは社会のためだけではなく、自己を向上させるための熟練と、技術を開発するようになるためのきっかけにもなると考えている。
→★人間は誰もが働いて、社会に貢献しながら生きることを求められる。しかし労働する人は、自分の好きなことをするのではない。自分の好きなことをするのは遊戯である。労働は辛い仕事である。そしてその労働の辛さに耐えられるようにすることが、人間としての品位を高めるのだとカントは考える。そのためには人間は幼い頃から精神を教育される必要があると考えた。★
・マルクスはアダム・スミスの労働価値の概念を批判しながら、資本主義は労働者が提供する労働力を利用して、長い時間に渡って労働させて剰余価値を搾取すると指摘した。しかし、労働の意味を重視するマルクスにとって、この搾取の概念よりも更に重要な意味を持つのが「疎外」という概念である。
→★労働はすべての商品の価値を作り出すものであるにも関わらず、現実のイギリスにおける労働は過酷なものとなっていた。神からの召命としての労働の思想と、現実のイギリスにおける搾取との乖離は甚だしいものであり、それについて説明しなければならない。マルクスがそのために利用したのが疎外という概念である。★
→疎外という概念はヘーゲルの「外化」という概念を基礎としたものである。ヘーゲルは道具とは”人間の理性が物になったものである”と考えていた。人間の理性は精神的な働きであるだけでなく、物として、外に現れたものとなる必要がある。内的なものは、外的なものにおいて表現される必要があるのだ。しかし理性にとっては、物となることは自分自身で亡くなること、一つの疎外に他ならない。理性は外化され、物象化されることで、その精神としての本来の在り方を否定される。しかし人間の理性は外化されて他者に見える「物」とならない限りなにものでもないとヘーゲルは考えた。自分がどれほどの優れた詩人であると思い込んでも、他者に示すことのできる作品という形で、自分の製品を外化しない限り、その思いは単なる独善的な思い込みに過ぎない。
→★マルクスはこのヘーゲルの外化という概念から、疎外という概念を取り出し、労働におけるその否定的な側面を考察する。疎外された労働においては、人間は四重の疎外を経験し、その疎外のうちに人間の理性の営みとしての労働の意味はほとんど失われてしまうとマルクスは考える。そして、このような苦しい労働にあえぐ人々をプロレタリアートと呼んだ。彼らは、「人間性を完全に喪失しているために、自己を獲得するためには人間性を完全に再獲得しなければならない階層」である。★:
①労働者は生産物から疎外される。労働において人間の精神は外化されるのであるから、精神は労働の産物において自己を表現するのであり、労働者は自分の作品に自分の精神の表現を見出して誇りを抱くことができるはずだ。しかし、労働者は生産物を自らのものとすることはできない(生産物は資本家の所有物である)。
②労働者は生産行為そのものにおいても疎外される。まず労働者は賃金を受け取るために自分の労働力を資本家に売らなければならない。この売られた時間内において労働者は資本家に命じられたように労働しなければならない。この労働は自らが望んだものではなく自らの発意のもとで行われるものでもなく、強制された労働である。労働者がくつろぎ、幸福であるのは労働していない時である。労働者は、労働以外のところで初めて自己のもとにあると感じ、労働している時に自己の外にあると感じる。
③労働者は、人間にとって自らの人間らしさを発揮できる営みであるはずの労働という行為そのものを、目的ではなく生存の手段とせざるを得ない。それは、人間の類としての本質的な活動から疎外されるということだ。疎外された労働においては、人間は自己の自由な活動を、自己の実現を放棄せざるを得ない。
④疎外された労働においては、労働者は仲間と労働の喜びを味わうことができない。同じ工場で働く労働者は、潜在席には競争相手であり、誰もが他人を人間としてではなく、「彼自身が労働者として身を置く基準や関係に従って他人を見る」ようにならざるを得ない。労働において人間は他人と対立し、そして自己と対立している。
・マルクスとエンゼルスは、労働の疎外を廃絶するためには現在の所有の形式に依拠し、これを維持しようとする権力を行使している国家を革命によって廃絶しなければならないと考えたのである。
→マルクスによれば、これによって生まれるのは国家と全く異なる種類の新しい協同社会である。分業が廃止された共産主義社会では「私は今日これをし、明日はあれをするということができるようになり、狩人、漁師、牧師あるいは批評家になることなしに、私がまさに好きなように朝に狩りをし、午後には釣りをし、食後には批判をするということができるようになる」。そして労働そのものは「自発的な手と臨機応変な精神と喜びに満ちた心で自分の仕事をこなすアソシエーション労働」に変わるだろう。
→★このアソシエーション労働とは、労働手段を資本家の独占から取り戻して、社会的な形で所有することによって生まれる労働のことである。これは共同生産方式を個別の工場ではなく、コミュニズム革命の力で社会全体で所有する労働組織を実現することによって初めて可能となる労働である。★
・★フランスの新しい経済学の流れであるレギュラシオン派は、労働過程の変遷を歴史的に追跡している。二十世紀初頭から、フォーディズムがテーラー主義と組み合わさった形で、工場の生産過程を一新した。どちらも労働者の賃金を向上させることで生産意欲を高め、増えた賃金による新たな市場を作り出すことを目的とするものだった。正し労働過程については重要な違いがある。テーラー主義は、生産過程の合理化を目指し、フォーディズムは生産過程の単純化と連続化を目指すものだった。★
→テーラー方式を採用して、大量生産のシステムを確立したのが自動車生産にライン方式を導入したヘンリー・フォードである。彼がフォード社の自動車生産プロセスで実現したフォーディズムによる生産方式である。
→しかし、アメリカでは徐々にフォーディズムに内在する問題が露呈し始めることになる。この方式は、労働者のイニシアティブを否定する。そのため労働の生産性を向上させるには機械化に頼るしかない。しかし機械化にも限界はあるため企業は利潤を確保するために販売価格を引き上げる。これは物価上昇をもたらし、やがては労働者の賃金の上昇を招き、再び物価上昇を招く。いずれ消費者の購買力は減少し、需要も低下するようになる。これが景気後退をもたらす。そして市場が縮小すると失業者が増大することになる。
・テーラー・システムとフォーディズムの組み合わせに依拠したアメリカ的な生活様式と所得増大モデルは行き詰まり、これに対応して登場したが、ネオリベラリズム的なモデルとネオテーラー・システムである。
→★イギリスのサッチャー首相の経済政策で有名になったネオリベラリズム的なモデルは、福祉国家を否定し、国家による過剰な統制を批判しながら規制を緩和し、自由貿易を主張し、技術革新を推進するものだった。また、ネオテーラー・システムはテーラー・システムで重視された機械化を更に推進したものだった。労働者の抵抗を最小限にするためには、結局のところ人間の「生きた労働」をなくし、機械という「死んだ労働」ですべてを解決することを目指すのである。★
→また、テーラー・システムの欠陥を是正するために、労働者のイニシアティブを重視するモデルも採用された。これは日本やスウェーデンで採用されたモデルである。日本の労働モデルの特徴とされたのは、実行者の知識と想像力を生産性の改善と品質管理に動員するためのQC(品質管理)サークル、企業内のフローや企業間のフローの管理まで全従業員をリアルタイムに参加させるカンバン方式、研究開発努力を共同で行う方式である。
・★ハイデガーは、人間が意識せずに行っている対象化における表象の営みを「直前に立てること」と呼ぶ。そして徴発としての技術は、その姿勢が更に露骨になったものにすぎない。「存在するものの存在することは、存在するものが、”直前に取り立てられていること”の中で尋ねられ、見出されるのである」としている。★
→この表象されたものの全体が「像」と呼ばれる。世界の全てを表象として、像として思い描くことによって初めて可能となる人間の技術は、この世界像の哲学としての近代哲学の思考方法と同根のものである。「近代的な技術の本質は、近代的な形而上学の本質と同一のもの」なのである。この世界像のもとでは、労働とは人間が主体として、こうした表象としての自然に働きかけることに他ならない。「世界が像になるということは、人間が存在社のうちにあって主体となることと同一のこと」なのである。
→この労働という営みは、主体である人間が、対象である自然に働きかけて、自然を自分の役に立つものに変える行為であり、それは自然を損なう行為とならざるを得ない。かつての労働は、例えば畑を耕す営みとして、自然の恩恵を受けるために自然に働きかける行為であった。しかし現代の技術的な発展とともに、耕作という労働は、遺伝子操作された種を蒔き、上空からヘリコプターやドローンで殺虫剤を散布するような工業的な営みになってきた。こうした耕作が人間の利益だけを目的として、自然の維持を無視した破壊的な営みとなっている。
・★アダム・スミスにおいてもマルクスにおいても、労働という活動において人間は自然を人間的なものとし、同時に自分を自然の一部にすると考えられる。このようにこれまで経済学においてもマルクス主義においても、労働によって「人間の自然化と自然の人間化」が実現するとされてきたことにボードリヤールは注目し、この労働と自然の弁証法的な関係のうちに留まる限り、人間の自由は実現されないと考える。★
→人間の自由はこの労働の弁証法と「価値のテロリズム」の組み合わせから手を切った遊戯と浪費と蕩尽のうちに、「象徴的な浪費」のうちに実現されると考えるのである。
・アントニオ・ネグリとマイケル・ハートは、現代の資本主義社会では自動化と機械化が進んでも、元々は肉体労働だった旋盤工の仕事までが抽象労働になったことを指摘しながら、今では労働そのものの質が大きく変貌していることを強調している。そして現代において特に重要なサービス部門に含まれる「非物質的な労働」には、感情労働を含む次の三種類の労働が含まれることを指摘している:
①工業生産における情報科学の活動によって生まれた労働である。自動化された労働においては人々のコミュニケーションに関わる情報技術が活用されており、人間が実際に肉体的に働く局面は極めて小さくなっているのである。
②分析的でシンボルを取り扱う作業であり、この作業は高度の知的な労働と、単にデータを操作するだけの単純作業に両極化する傾向がある。
③感情労働であり、情動に関わる労働と呼んでいる。他者のケアをするような労働は「情動の生産と操作を含むもので、人間的接触、身体的様式における労働」である。この労働はこれまで検討してきた感情労働と同じものであり、「人間の接触や相互作用がもたらす情動に関わる労働」である。
→★労働の生産性を向上させるためには、これらの三種類の非物質的な労働、特にそのうちの情動労働が重要な意味を持つようになっている。今日では、生産性、富、それに社会的な剰余の創出は、言語的、コミュニケーション的、そして情動的なネットワークを通して協働的な相互作用の形をとっている」のである。★
・恐らく単純作業から順番に、人工知能が人間の労働を次第に奪うようになるのは確実と見られる。そうなると人間の労働として残されるのは、人間が判断をAIに委ねることを嫌うような特殊な業務であるか、人間の判断が定型化することのできない多様な活動を含む業務に限られるようになるだろう。あるいは、定型化してコンピュータに判断させるにはコストがかかりすぎる業務、いわゆるブルシットジョブであろう。
→★デヴィッド・グレーバーによると、自動化にの後に残されたブルシットジョブには次の5種類があるという★:
①実施的な仕事をせずに、顧客や上司の機嫌伺いのためだけに存在する「取り巻き」のジョブであり、受付係、管理アシスタント、ドアアテンダントなどがある。
②他人を脅したり欺いたりする仕事である「脅し屋」のジョブであり、ロビイスト、顧問弁護士、テレマーケティング業者、広報スペシャリストなど雇用主に代わって他人を傷つけたり欺いたりするために行動する悪党たちである。
③発生した欠陥や故障を改善するのではなく、それを取り繕うだけの「尻拭い」のジョブであり、バグを手直しするプログラマーや、荷物が紛失した乗客を落ち着かせる航空会社のデスクスタッフなどである。
④組織が実際にはやっていないことをやっていると主張するために存在しているジョブ、これは書類穴埋め人などである。
⑤ブルシットジョブを作り出すことを仕事としている企業の中間管理層もこうした仕事が存在するために重要である。
・労働という観点から、人類史の三度の技術革命(農業革命/産業革命/情報革命)は重要な問題を引き起こした
→第一の農業革命においては、人間は定住して農業を営むようになり、そこから階級的な差別と不平等が生まれた。強力な国家が設立され、農民たちの生活は楽にはならず、労働の成果は国家に吸収され、それが文明の基盤となった。ところが現代でもブッシュマンのように国家を設立することを避けることで過酷な労働に苦しめられない生活を維持している人たちもいる。
→第二の産業革命によって、主に働くのは人間ではなく機械となり、人間は機械に奉仕するような存在になった。人間が機会を使うはずであるのに、機会が人間を使うような事態を生み出したのである。
→★第三の情報革命によって、人間は機会に使われるだけではなく、機会によって仕事を奪われるようになり、労働による自己実現の可能性を喪失するようになるだろう。この技術革命が我々の労働にどのような影響を及ぼすことになるのかはいまだ明確になっていない。我々はこれからもこの問題に直面しながら、新しい生き方を模索し続けなければならなくなるだろう。★