【書評】"ふれる"が持つ創造性――『手の倫理』
現在公開中の映画『ふれる。』を先日観た。『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』『心が叫びたがってるんだ。』『空の青さを知る人よ』と、多くの人気作品を手がけた長井龍雪(監督)、岡田麿里(脚本)、田中将賀(キャラクターデザイン)の3人。『ふれる。』はこの3人が再度結集し制作された、劇場アニメーション作品である。
"ふれる”という行為の創造性
“ふれる”という行為を基軸に、若者の友情物語を描いた本作。主要人物の描き方(特に性格面)には多少の違和感を覚えたものの、自我形成がまだまだ不安定な若者の、感情の機微が深掘りされていた点は評価できる。作画の美しさ、繊細さも健在だった。
とりわけ印象的だったのは、「手の触覚」と「信頼関係」の描かれ方だ。他者に対する信頼感を、手の接触という描写で表現していたのである。例えば、各キャラクターの「手」に着目すると、互いを信頼しているときほど他者の手にふれ、信頼を失くしているときほど他者の手にふれないことに気づく。
つまるところ、他者の手に“ふれる”ということは信頼の表現であり、他者と良好な関係を築く第一歩なのだ。“ふれる”という行為には、高い創造性が備わっているのである。
「相互的」で「生成的」
このような理解は、本書『手の倫理』を読み進めることで補強されていった。人間のあり方を「体」を通して研究している著者がものした本書では、まさに“触れる”ことから生まれる創造性について考察している。
著者は手の接触を“ふれる”と“さわる”に区別し、 “ふれる”は相互的で生成的、“さわる”は一方的で伝達的と、その特徴を論じている。例えば、「傷口にふれる/さわる」という行為について、前者からは「状態をみたり、薬をつけたり、そっと手当てをしてもらえそうなイメージ」が感じられる。一方、後者は「思わず患部を引っ込めたくなる、痛そうな印象」が伝わってくる。あるいは「医師の触診といった専門的な治療」というイメージも、“さわる”という言葉から感じられると著者は言う。
すなわち、“ふれる”には情報の伝達よりも相互理解、コミュニケーションの意味合いが含まれ、“さわる”にはこれとは逆の意味合いが含まれるというわけだ。両者を分かつものはずばり、情緒。「ふれあい」という言葉にも表れているように、他者に“ふれる”ときに生じているのは、「共感を持ちながらも接触のパターンをお互いに微調整したり交渉したりするような、じりじりとした動的なプロセス」なのだ。
本書では、こうした言語的見地はもちろん、西洋哲学やコミュニケーション論といった学問的領域、ブラインドランナーとその伴走者、障害者のリハビリ・介護といった実践的領域を踏まえて、“ふれる”ことの創造性について考察している。
一目で対象を把捉できる視覚とは異なり、触覚は対象を把捉するまでに時間がかかってしまう。よって、西洋哲学においては、触覚は視覚よりも劣っていると理解されていたという。本書は、これまで見過ごされがちだった触覚の可能性を再認識するうえで、うってつけの一冊だ。