第8号 「奇跡の脳」から「新しい生き方」を学ぶ
タイトルに「奇跡」とついている本を読み「奇跡」を学ぶという記事を書いています。
今回も、前回に続いて、ジル・ボルト・テイラーさんという女性の脳外科医の方が書いた「奇跡の脳」という本を読み解きながら、「奇跡」とは何なのかを探っていきたいと思います。
この「奇跡の脳」の内容を説明すると、脳の専門家であるテイラーさん自身の身に脳卒中が起こってしまったために、左脳の機能が極度に低下し、その結果、右脳が表現するワンネスの世界を垣間見たり、左脳が持つ理知的な働きをあらためて知るというものです。
また、脳外科医という専門家の視点で、自身の脳が回復していく様子を、客観的に書かれているため、論理的で読み応えのある本といっていいでしょう。
今回は、「右脳」の「左脳」の違いについて注目しながら、私たちがこれから歩んでいくべき新しい生き方の形について触れていきたいと思います。
この本の著者のジル・ボルト・テイラーさんは、右脳と左脳について次のように語っています。
要約すると、テイラーさんは右脳の認知力と左脳の行動力を上手に使うことができると「慈愛に満ちた世界をつくる」ことができるといっていて、右脳と左脳の健全なバランスを生み出すことが大切だといっています。
またテイラーさんは右脳と左脳の性格を次のように形容しています。
このテイラーさんの形容から、私たちは右脳と左脳という二つの異なる人格を持ち合わせて生きているということがわかります。
こういった右脳の左脳の違いは、フロイトの精神分析の「エス」と「超自我」にあてはめることができるかもしれません。
「エス」とは本能的な欲求や生理的衝動であり、人間が生来持って生まれてくる本能的な意識です。
一方、「超自我」とは、道徳的な良心や理想に照らして自我の活動を観察し、評価や批判を下す意識といわれていて、人間が成長していくにしたがって身に付いていく意識です。
下の図は、人間の意識構造を示したものですが、人間の意識は、「エス」から始まって、年齢を重ねるにつれて「自我」を確立させ、大人になると主に「超自我」を使って生きるようになっていきます。
そういった意味では、右脳は「エス」に類似しているといってよく、人間が本来持っている意識を右脳が担っていると考えることができます。
また、左脳は「超自我」に類似していて、人間が集団で過ごしていくために必要な判断を左脳が担っていると考えることができます。
さらに、「エス」は無意識の領域にあり、「超自我」は顕在意識の領域にあるということも、右脳と左脳のそれぞれに対応しているように思います。
なぜかというと、私たちの日常生活で使う脳は、左脳中心で右脳の活躍する頻度は少ないため、右脳が「エス」の無意識に、左脳が「超自我」の顕在意識に対応しているように感じるからです。
また、「エス」の意識が無意識にあり、「超自我」が顕在意識にあるというのも、子供の頃の思いを大人になってしまうとすっかりと忘れてしまうという意味でも、右脳と左脳に類似しているように思います。
そこで、この人間の心の構造を示した上の図を左に90度回転させると、それがそのまま右脳と左脳に変わるのではないかと考えることもできたりします。
では、こういった右脳の左脳の特徴を「奇跡の脳」の本文の中から抜粋してみます。
右脳の世界観と左脳の世界観は、まさに相反するものであり、先述したように、私たち人間は、全く異なるふたつの人格を持ち合わせて生きているといっていいでしょう。
例えるなら、ひとりの人間の中に冒険家と税理士、あるいはアーティストと保険外交員が同居しているような感じでしょうか。
そして、今回、私がテイラーさんが書かれていることで、特に惹かれた文章が、こちらです。
この文章を私なりに言い換えるなら、左脳の仕事とは、右脳のが受け取った情報を具現化するということであり、右脳が出したアイデアを左脳が受けとり形にして行くということになるでしょう。
このことは右脳が「主」であり左脳が「従」であるという意味にとることもできます。どういうことかというと、「右脳」が人生の方向性を決めて、左脳がその目的を遂行するということです。
「右脳」が発信する内容は常に直観的であり非論理的で、それこそ幼い子供のような自由奔放さがあったりします。しかし、そういった非論理的な物事に整合性を導き出し具現化させていけるのが「左脳」の仕事ということです。
たとえば、ふと「旅に出よう」と思うのは「右脳」からの発信であり、その思いを受け取った「左脳」は、その旅に必要なものは何なのか、その旅をどんな行程にするかということを考える役割を担うことができます。
こういった感じで、「右脳」の思いを具現化していくのが「左脳」の役割になっているということをテイラーさんは述べているといっていいでしょう。
その一方で、「左脳」が「主」で「右脳」が「従」になってしまうと、2つの脳の機能が十分に発揮されなくなってしまい、バランスが悪くなってしまいます。
なぜかというと、テイラーさんの言葉を借りるなら、「左脳はクソ真面目」なので、左脳を主人として行動すると、「右脳」の自由奔放さを抑え込んでしまうため、「右脳」は何もすることがなくなってしまい、ある意味で「右脳的な思考」は抑圧されてしまうからです。
そして、左脳という主人に抑圧された右脳は、左脳に勝てるような論理性がないため、反抗すらできなくなってしまいます。
たとえば右脳が「旅に出たい」と主張しても、左脳は、その強い論理性によって旅に行けない理由を山のように挙げることができるでしょう。しかし、右脳は直観的なアイデアで意思表示しているだけなので、旅に出たい理由を明確に表現できなかったりします。
こういった感じで、「左脳」を主人にしてしまうと「右脳」は何も対抗できなくなってしまうのです。こういった構図は、大人が子供を叱る様子に似ていたりします。
私は、幼い頃、よく泣く子でしたが、なぜよく泣いていたかというと、親から色々いわれたりすると反論できなかったからです。こういった状況が、ある意味で、私たちの頭の中で繰り広げられていたりします。
現代社会は、どちらかというと左脳優位な社会であり、「右脳的な発想」は抑圧されやすい対象だったりします。また「右脳的な発想」には幼さを感じさせるため、「左脳の論理的」な大人の振る舞いにはなかなか勝てないものです。
しかし、人間の本能は、自由に楽しく歌を歌っているような感覚で生きていきたいと思っているものであり、そういった思いを大人になっても誰もが思っていたりするものです。
そして、左脳的論理性に抑圧されてしまい、右脳の欲求に行き場がなくなってしまうと、場合によっては人間として生きる意味が分からなくしてしまいます。というのも右脳が持っているようなワンネス的な「おおらかさ」が人間の根源的な資質だからです。
そこで思い切って意識を変えて、右脳を「主」にして「左脳」を「従」にすることができるようになると、生きることが楽しくなっていき、窮屈さから脱することができるようになっていくことでしょう。
なぜかというと、右脳が示す持つ自由奔放さに、左脳が整合性や論理性を与えてくれるからであり、生きることが創造的になっていくからです。
そして、私たちが人間として持っている右脳の「自由奔放さ」を受け入れて生きていけるようになると、私たちは、これまでとは違った生き方を歩んでいけるようになっていくことでしょう。
テイラーさんは、次のように語っています。
幼い子供が、他者に対していつも心を開いているのは、右脳優位だからといってもいいかもしれません。しかし、人が大人になると左脳優位で生きるため、人と人との間に壁を作ってしまいがちです。
しかし、大人になった私たちが幼い子供のように心を開いて、その子供のような心から生まれてくるアイデアを、大人の知識や整合性、論理性を使って具現化していくことができれば、テイラーさんのいうように「この惑星を、私たちが憧れているような平和で慈愛に満ちた場所に進化」させることができるようになっていくことでしょう。
そういった意味でも、右脳が持っている「自由奔放なおおらかさ」を主人として、その「自由奔放なおおらかさ」を、左脳の論理性と行動力を使って具現化できるようになると、この世界に「奇跡」を起こせるようになるのかもしれません。