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007 自己肯定感って難しい

初めは弱い自分を認めたかっただけなのに「弱いから」と言い訳にした日を今も後悔している

自己肯定感って難しい。初めはてっきり自分の悪いところも好きになろう!と言っているのだと思っていた。認めるということは良いものとするという意味なのだろうと。私はおっちょこちょいだけれどそこが可愛いわ、と嫌いな部分も愛してやることだと思った。そもそも愛するとはどういうことなのかも分からないままだが、とにかくそういうことだと思った。
だから認めてやった。自分は弱い。弱いのだと分かった。気づくことができた。弱いのだからあれは仕方がなかった。そうだろう?だって弱いのだから。気づけばただ純粋に認めたかったはずのそれを、いつしか「弱いから」という言い訳にしている自分がいた。何か違うなと思った。
きっと私がした方がよかったこと(すべきとは言えない。その当時できたかも分からない。)は、弱いところを好きになる(正当化する)ことではなく、「弱いところは私の欠点であるが、弱くても弱くなくても構わない」とそれ自体どうでもいいことと位置付けることだった。(この場合のどうでもいいとは投げやりな意味ではなく、その欠点の有無は私の存在に対してさしたる問題ではないという意味。)こう考えてみると、好きの反対は嫌いでなく無関心というのは本当だなあと感心してしまう。

なので私にとって"自己肯定感を高めよう!"は"悟りを開こう!"という解釈になった。なんとも難しいことが流行っている。世の中、そんなにぱかぱか悟りが開かれていたら流石のお釈迦様も困惑するだろう。仏陀目指してなんかもうすごい滅茶苦茶頑張って修行をして悟りを開いた人たちは憤慨するかもしれない。いや、悟りを開いているからそうはならないか。とにかく私の中では自己肯定感が高い人=悟りを開いた人ということになったので自分のことを嫌い責めてしまう人は勿論、自分のことが好きで自分に自信がある人も除外されることとなった。自分を好きだということが良いとか悪いとかいう話ではなく、自己肯定感というものは好きとか嫌いとかとは違う次元な気がするのだ。
私の中の自己肯定感が難しすぎる。

世の中、自己肯定感の本来の意味や定義がどうだというよりも、ただ単純に自分を嫌うことをやめよう!という流れなのかもしれない。だから自分を愛する人たちは正しいように見えるのかもしれない。いつか"自分を嫌うことで自分の能力の様を正しく理解し更により一層間違いのない生き方を模索することができる説"が主流になったら逆転してしまうのかも。だったら今すぐ平均より太っているとか、友達が少ないとか、自分を信用していないとか、自分のことが好きになれないとか、そんなことに良否なんてないのだから口にしたところでまるで可哀想みたいな目をくれなくなればいいのにね。貴方の考えとは違うかもしれないが私はそれでいいと思っていることに憐れみが向けられなければもっと自分のことを素直に伝えられるのに。私の価値はそんなことで変わらないと仏陀たちは気付いているのにね。


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