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創造に私見は必要ない❓❗️〜創造は0からのスタートじゃない〜

自ら新しいものを生み出そうとするとき、"自分の頭"の中から何かしらの"個人的な"考えを絞り出そうとする。これはありがちなプロセスだ。しかし、創造を自分を中心にしてすることは良い創造にならないかもしれない。

まずは、以下の引用文を読んでほしい。

真にすぐれた句を生むのは、俳人の主観がいわば、受動的に働いて、あらわれるさまざまな素材が、自然に結び合うのを許す場を提供する時である。
(中略)
二次的創造というのは、触媒的創造のことになる。
(中略)
新しいことを考えるのに、すべて自分の頭から絞り出せると思ってはならない。無から有を生ずるような思考などめったにおこるものではない。すでに存在するものを結びつけることによって、新しいものが生まれる。

外山滋比古(1968):『思考の整理学』筑摩書房、56-57頁

引用した文章をまとめると、文学(芸術)においても、学問においても、優れた創造は、自分自身が"触媒"として機能した場合を言い、個人的な見解を加えるというよりは、すでにある知識をどのように組み合わせるかが鍵という具合になる。
具体的な例を挙げるなら、大学の課題でよく出るレポートが最適だ。レポートを書く時、「感想文になってはダメ!」「文献を引用しなさい!」と言われる。それはつまり、私的な意見ではなく、文献に書かれた既成の知識を組み合わせて書きなさい!ということだと言える。この例を見ると、レポートはなぜ感想文じゃダメなのか納得できる。

個人的な考えではなく、既存の知識を使うことはわかった。では、個性は”どこ”に出るのか?それは、”要素の組み合わせ方”だ。ここでも例を挙げると、ファッションのコーデがわかりやすい。我々は”様々な既製服を自分の好みに沿って組み合わせている”からである。その組み合わせに、服を着る人の個性が出ている。

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創造に必要なのは、主観的な見解ではなく、今あるものたちを"どのように"ミックスするかなのだ。


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