#9 妻の主役感、ぼくの裏方感
今から7ヶ月ほど前、妊娠9週目の頃。新しい命が順調に成長していることに嬉々としながら、妻と区役所へ向かった。
窓口のカウンターに妻と並んで座り、書類を提出すると、担当の方から母子手帳が差し出された。ボシテチョウ。中身がどんな内容なのかは知らない、せいぜい耳にしたことはある程度。
受け取って「母子手帳」という文字をまじまじと眺めた時、ぼくは素朴に「え、父は?」と疑問に思った。こっちはバリバリ育児する気でいるというのに、まるで除け者にされているようではないか。父親、蚊帳の外……。
ショックを受けながら呆然と座っていると、担当の方はぼくには目もくれず、妻に向かってこれからの出産や育児の案内を続けていた。まてまて、父親、完全に圏外へ放り出されてるではないか……。
しかし、そのとき気が付いたのだ。
主役は妻なんだと。
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ぼくはおっぱいをあげることができない
母子手帳や、育児系の雑誌などに目を通すと、父親の育児への協力が呼びかけられている。
母親の中には「育児を手伝う」「育児に協力する」といった、あたかも育児が母親の仕事であることを前提とした表現に反感を持たれる方もいるようだ。言葉尻を捉えて揚げ足をとっても仕方のないことのようにも思うが、ぼく自身は、協力するでも手伝うでもなく、ひとりのプレイヤーとして育児をしているつもりだ。
当然、役割の分担はある。性別の違いから、ぼくはどんなに望んでも出産を経験することはできないし、願をかけて力強く絞っても母乳は出てこない。だから、毎日テトリスのように降ってくる家事を端からクリアにしていき、「授乳以外」の出来る育児をやっている。
ところで、出産も授乳もできない父親だが、新生児の赤ちゃんにとって父親はどんな存在なんだろうか?
母親と赤ちゃんは、もともと体が繋がっており、10ヶ月間苦楽を共にしてきた関係。生まれてからは、おっぱいを与えてくれる唯一無二の存在で、きっと自分にとって大事な人だと本能的に理解していると思う。
一方、父親は、母親の横でいつもウロチョロして(ウチの場合)、写真ばかり撮って(ウチの場合)、しつこいくらい語りかけてくる不思議な存在であるに違いない(ウチの場合)。
気になったので調べてみると、そもそも新生児のものごとの認識は「おっぱい or おっぱい以外」というものらしい。おっぱいを与えることができる母親は、いつだって求められる存在になる。一方、父親は「おっぱい以外」に十把一絡げにカテゴライズされる運命にあり、さしづめ赤ちゃんにとって、いてもいなくても変わらない存在となる。
育児を経験した方はお分かりだろうが、新生児期は1〜3時間おきくらいの頻度で授乳しなければいけない。授乳後すぐに赤ちゃんが寝てくれるとは限らないので、母親の睡眠時間はとにかく削られるもの。ご多分にもれず、ウチの妻も、睡眠時間が1〜2時間という日がザラにある。ミルクという選択肢もあるが、授乳しなければ胸が張ってしんどいようなので、エンドレス授乳、つきっきりの毎日だ。
ちなみに、おっぱいを求めて泣く娘をぼくが抱っこするとどうなるか。
ぼくの胸元や肩に頭突きをしてきたり、二の腕に吸い付いてきたり、襟や袖を引っ張ってきたり、爪で引っかいたり、とにかく暴れまくるのだ。
やれるもんなら、ぼくだっておっぱいをあげてみたい。一度、試しに泣いている娘の口元に、自分の乳首を差し出してみたら、一瞬でそっぽ向かれてしまった。同じ乳とはいえど、ぼくの乳と妻の乳の間には歴然とした違いがあるようだ。
妻降臨。偉大なるおっぱいに拍手喝采
ウチの娘はよく泣く。特に夜。ひと晩中泣いてる時もある。ぼくは育休取得中の身分なので、できるだけ妻は寝られるように、夜中の面倒をみている。夜型人間のぼくは、はじめ夜更かし仲間ができたと呑気に喜んでいたけど、一瞬で自分が思い違いしていることに気が付いた。
のべつ幕なし、目の前(ってか耳の横)でギャン泣きされると、さすがにこちらもつられて発狂しそうになるのだ。ぼくはもともと煙草は吸わないが「一服」の必要に迫られて、ひたすら冷凍庫の棒アイスを食べるという、自分なりの一服(奇行)が定着したほど。
泣きやませる時間を楽しもうと、あの手この手と「泣きやませ四十八手」なるものを考案しているが、やはり一筋縄ではいかないものだ。夜明け前の闇の中で、泣いてる娘を抱えて途方に暮れることもある。
泣き叫ぶ娘をあやすこと1,2時間、全く歯が立たない、もう自分ではにっちもさっちもいかない時、白旗挙げて妻に助けを求めるしかない。
我が子の望みは、俺じゃない!妻だ!おっぱいだ!
と、高らかな夫のギブアップ宣言を聞きつけた妻は、一瞬で全てを解決してくれるヒーローがごとく颯爽と現れ、娘を抱きかかえる。
この時の妻の頼もしさといったらない。
妻に抱えられ、娘の前におっぱい様が差し出されると、娘はすぐに泣き止み、幸せそうにおっぱいを吸い始める。
先ほどまでの喧騒が嘘のように消え、いつかの間にか優雅な時間が訪れている。暗がりの中で、妻と娘を照らす照明が、舞台上の主役を照らすように二人を浮かび上がらせている。そこにぼくの入り込む余地はない。人間の神秘が織りなすその光景を眺め、ぼくは陰から拍手を送るのだ。
母親と赤ちゃんの見事な「授乳」の光景を前に、ぼくは脇役のように傍らに居る。いや、脇役というより、裏方といった方がしっくりくる。
例えるなら、一日に10回ほど開催される「授乳」という神秘的なショーを難なく進行するためにぼくは存在しているようなもの。授乳前のオムツを替えをしてお膳立てをし、授乳中には食器洗いや掃除機がけなどの、音の出る家事をすすめ、吐き戻しがあれば処理班として駆けつける。授乳後は、できるだけ主役の母親には休んでもらい、泣き続ける娘をあやして次の「授乳」の準備をはじめる。
そう。この「授乳」というショーの主役は当然、妻と娘。
そしてぼくはその裏方なのだ。
今夜もぼくは目を光らせている。
ショーはいつ始まるかわからない。
裏方らしく、その時がきたら素早くショーの進行を支えていかなければいけない。
あれ、寝ている娘がまた泣き始めた。
そろそろショーの時間のようだ。
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