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歴代のファースト・レディーたち

ファースト・レディーの役割は公式に定義されたことはないが、彼女らは歴代、政治的・社会的に重要な役割を果たしてきた。

今回は、アメリカ合衆国のファースト・レディーの話。どんな人たちだったのか、何をしてきたのか、何人か紹介。大統領よりは、確実に知られていないだろう。


「ファースト・レディー」と呼称されるようになったのは、19世紀末からなので、途中まで大統領夫人と書いていく。

マーサ・ワシントン
(1789~97年に大統領夫人)

マーサは、バージニア州のプランテーション生まれ。19歳で最初の結婚、26歳で未亡人に。大規模農園と300人の奴隷の所有者に。予備役民兵だったジョージ・ワシントンと出会い、再婚。後に、初代大統領夫人に。マーサは、夫に大統領になってほしくなかった。大統領夫人になることを「州の囚人」と表現した。本音はそうでも、表向き、立派につとめあげた。大統領が、執務室と住居を1つの建物にまとめたため、夫人は常に、大勢の訪問者を迎えることになった。彼女は、重要な問題について、なんらかの立場をとることを控えた。


ドリー・マディソン
(1801〜09年に大統領夫人)

トーマス・ジェファーソンは、大統領在任中、独身であった。最愛の妻が亡くなってから19年間、再婚しないまま、大統領になったからだ。そこで、ジェームズ・マディソン国務長官(後の大統領)の妻が、“ホステス” の役割を果たすことに。結果、ドリー・マディソンは、ジェファーソンの2期と夫の2期にわたり、政権に関わった。米英戦争で、1814年、英国軍が大統領官邸を襲撃した。彼女は、機転を利かせて、重要な物品を保護した。


エリザベス・モンロー
(1817~25年に大統領夫人)

ジェームズ・モンロー元大統領の妻エリザベス・モンローは、強いエリート主義で、民衆からあまり支持されなかった。前述した英軍の襲撃後、彼女は、大統領官邸の調度品を新しくそろえた。それらは非常に豪華だったが、彼女の接待は、ドリー・マディソンにはるかに劣ると言われた。パーティーに、ボイコット者が出たりしていた。

ちなみに、その次の大統領夫人も、同様の嫌われ方をした。大統領領一家、質素に暮らして愛されるか、豪華に暮らして嫌われるか。そういう雰囲気が定着したようだ。(質素な方が、目線が近いだとか、国民感情を理解しているように思われるのだろう)


ルーシー・ヘイズ
(1877~81年に大統領夫人)

南北戦争以前、大統領夫人は、首都以外では知られていなかった。1869年に、大陸横断鉄道が完成したことが、それを変えた。アメリカ横断が容易になり、ラザフォード・ヘイズ元大統領の妻ルーシー・ヘイズは、沿岸から沿岸まで旅をした。こうした露出に加え、大衆的な禁酒運動との関わりやファッションの質素さが、彼女に絶大な人気をもたらした。マスコミが、「この国のファースト・レディー」と称えた。ファースト・レディーという呼び方は、ヘイズ大統領夫人からはじまったのだ。

19世紀の後半、ファースト・レディーは、全国的に注目されるようになった。
20世紀には、米国は、世界情勢でより大きな役割を果たすようになっていた。女性の教育や就職の機会は、向上するようになった。これらのことから、ファースト・レディーの役割は、さらに拡大した。
(セオドア・ルーズベルト元大統領が、大統領官邸を「ホワイト・ハウス」に改名)


エレン・ウィルソン
(1913~14年にファースト・レディー)

ウッドロー・ウィルソン元大統領の最初の妻エレン・ウィルソンは、スラム地区を視察するなどし、住宅改革を推進した。住宅法案が可決されたのは、彼女の死の間際。

エディス・ウィルソン
(1915~21年にファースト・レディー)

ウッドロー・ウィルソン元大統領の2番目の妻エディス・ウィルソンは、大統領が脳卒中で倒れてから、“用心深い門番” として活躍した。ホワイト・ハウスへの訪問者や、大統領宛てのメッセージをよく監視した。「ペチコート政府」などと非難されると、彼女は、あくまでもサポートをしているだけだと強調した。


グレース・クーリッジ
(1923~29年にファースト・レディー)

カルヴィン・クーリッジ元大統領の妻グレース・クーリッジは、大学の学位を取得した最初のファースト・レディーだった。その点で人気になり、夫の評価を高めた。


ルー・フーバー
(1929~33年にファースト・レディー)

ハーバート・フーバー元大統領の妻ルー・フーバーは、夫と同じスタンフォード大学の学位をもっていた。全米ラジオで演説を行った、最初のファースト・レディー。ホワイト・ハウスの所蔵品の目録を作成したりもした。


エレノア・ルーズベルト
(1933~45年にファースト・レディー)

フランクリン・ルーズベルト元大統領の妻エレノア・ルーズベルトは、当初、ファースト・レディーという仕事を引き受けることに、大きな不安を抱えていた。その心配をよそに、彼女は、大活躍した。結局、最長期間のファースト・レディーとなった。多くの記事を書き、たくさんのスピーチをした。彼女は、女性・アフリカ系アメリカ人・若者・貧困層などが、政治プロセスから締め出されていることに着眼。そこへアプローチした。夫とは異なる有権者へアピールすることに、見事に成功。それでも、本来の謙虚な性格は変わらず。自分の影響力を否定していた。夫が半身不随になってからは、彼の目と耳になった。夫の死後も公務に参加。大統領よりも、ファースト・レディーの名声の方が、長く続いた。国際連合の米国代表として、世界人権宣言の策定と、全会一致での可決に貢献。民主党で活躍。1961年、ジョン・F・ケネディー大統領から、女性の地位委員会の委員長に任命された。翌年、他界。


マミー・アイゼンハワー
(1953~61年にファースト・レディー)

ドワイト・アイゼンハワー元大統領の妻マミー・アイゼンハワーも、多くのアメリカ人から愛された。短い前髪は、「マミー前髪」として有名になり、チョコレート・ファッジにも、マミーという名前が採用された。彼女の記者会見は、社交的な事柄に限られた。選挙前に、“Please vote." と発言。投票すること自体の大切さを伝えたもので、彼女は、夫に投票してほしいと願わなかったのだ。夫とライバルのどちらかに肩入れすることを拒否した、興味深いファースト・レディー。


ジャクリーン・ケネディ
(1961~63年にファースト・レディー)

ジョン・F・ケネディ元大統領の妻ジャクリーン・ケネディは、若さ、魅力的なスタイル、フォトジェニックな子どもたちなどで、国内外で絶大な人気を博した。彼女は、自分の報道官を指名した。プライバシーの保護に奮闘したのだ。

余談

ケネディー家の悲劇。
大統領は暗殺され、大統領の兄は飛行機事故死、弟の一人は殺され(多くの謎が残る)、妹の一人も飛行機事故死。大統領の長男も飛行機事故死。

ケネディー兄弟

残りの、弟一人は、チャパキディック事件を起こし、妹一人は、ロボトミー手術を受けさせられた。軽い知的障害だった。世間の目を気にした父が、ケネディー家の名誉を守るために行った。手術前よりも知能が低下。マスコミに知られないようにと、精神病院に隔離された。

「ローズマリーには障害があるとまわりには知らされていたが、最初は、それがどういう意味かは分かりませんでした。ケネディー家の理想の娘ではなかったということでした。ダンス好きなローズマリーは、男の子にのぼせ易いところがありました。望まない妊娠でもしたら、ケネディー家の輝かしい未来が台無しです。それを恐れた父ジョセフは、彼女が23歳の時にロボトミー手術を受けさせました。この手術は心の病に効果的だと言われていましたが、結果、ローズマリーの精神年齢は3歳児程度になってしまったのです」

数々の悲劇は、彼女の怨念の力が引き起こしたのでは?神の怒りに触れたのでは?と言いたくなるほど、ひどい話。ローズマリーかわいそう。


パット・ニクソン
(1969~74年にファースト・レディー)

リチャード・ニクソン元大統領の妻パット・ニクソンは、国民からあまり評価されなかった。長距離を移動し、各所で演説を行い、潜在的な有権者に挨拶をしてまわった。目の不自由な人たちをホワイト・ハウスに招待するなどし、ボランティア活動もした。なぜ、あまり人気が出なかったのか。彼女は、自分の役割について語ったり、功績を強調したりすることに、大変消極的だった。謙虚さは歓迎されても、自己アピールができなすぎると、何をしているのかどう考えているのか、伝わらないのだろう。


ベティ・フォード
(1974~77年にファースト・レディー)

ジェラルド・フォード元大統領の妻ベティ・フォードは、ニクソンの辞任を余儀なくさせたウォーターゲート事件をきっかけに、ホワイト・ハウスに入った。そのため、自身が率直であることを頻繁にアピールした。中絶問題などいくつかの重要な議題について、夫とは異なる意見を(率直に)述べたりした。前任者たちは、大病を患うと隠すことが多かったが、彼女は、これもまた率直に、真実を話した。乳ガンだった。このことは、多くの女性が検診に行くことにつながった。10代の娘の性生活についてまで語り、批判もされたが。概ね、彼女のオープンさは、国民から肯定的にとらえられた。任期後は、アルコール中毒と薬物依存を告白。まさに、「カミングアウトの人」だった。


ロザリン・カーター
(1977~81年にファースト・レディー)

ジミー・カーター元大統領の妻ロザリン・カーターは、夫のために、個別に選挙活動をした。就任してからは、ラテンアメリカ7カ国を訪問。貿易や国防について、自ら、政治指導者たちと会談した。エレノア・ルーズベルトが行っていた「事実確認」のための旅行とは、一線を画すものだった。ロザリンのケースは批判され、彼女の行動は制限された。ホワイト・ハウスを去った後も、政権運営を洞察した本を出版した。


ナンシー・レーガン
(1981~89年にファースト・レディー)

ロナルド・レーガン元大統領の妻ナンシー・レーガンは、NYT紙に、「ファースト・レディーの仕事を副大統領レベルに拡大した人」と書かれた。彼女は、人事決定に影響を与え、夫のスケジュールを決め、会議のアジェンダを形成していた。


バーバラ・ブッシュ
(1989~93年にファースト・レディー)

ジョージ・ブッシュ (親) 元大統領の妻バーバラ・ブッシュは、自分の意見が夫の意見とどう違うかを明言しない、という伝統に従った。その保守的なスタイルで、絶大な人気を誇った。識字率向上キャンペーンとの関連も、称賛された。愛犬のミリーについての本が、ベストセラーに。その収益は、識字率向上基金に。


ヒラリー・クリントン
(1993~2001年にファースト・レディー)

ビル・クリントン元大統領の妻ヒラリー・クリントンは、法律の学位をもっている。自身のキャリアを成功させてから、弁護士界などへの大きなコネクションと共に、ホワイト・ハウス入りした。ホワイト・ハウス内に、自身のオフィスを構えた。はじめてのこと。大統領から、医療制度改革タスクフォースの責任者に指名された。時には、夫の政権の立場と、対立することさえあった。2000年に、ニューヨーク州選出上院議員へ立候補。


この後は、ジョージ・ブッシュ (子) 元大統領の妻ローラ・ブッシュ、バラク・オバマ元大統領の妻ミシェル・オバマ、ドナルド・トランプ元大統領の妻メラニア・トランプと続き、現大統領ジョー・バイデンのファースト・レディーであるジル・バイデン博士へ。(教育博士号 Ed.D. を取得しているため、博士とも記すべき)

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