目に見えないだけでなく、取引や交渉もできないことの意義
人間の、宗教的行動や信念の、起源について。
それらは “副産物” であると言う人たちがいる。そうではないと言う人たちもいる。
宗教は、既存のアプローチの欠点を説明したり、非経験的世界(想像の世界)を創造したりする。
宗教的信念は、非経験的(空想的)であるが、言語によって生成される。そして、儀式などを通じて、繰り返し人々に認識される。
宗教があるということは、人間には現実や経験的な物事の代替を生み出す能力がある、ということを意味する。
しかも、そういった概念を定着・継続させることや、安定的に調整することもできている。
「霊などが存在するということは、酸素が存在することと同じように、当たり前のことである」
このような考えをもつ人々にとって、それは、どうして・どのように当たり前であり得るのか。
いわゆる、オカルト的な話がしたいのではないが。主人公の少年にとっては当たり前のことが、他の人たちにとってはそうではないという観点で、『Sixth Sense』の動画をはってみた。
あなたは今、真夜中にジャングルの奥深くを歩いている。背後で、小枝の折れる音が聞こえた。
一番ヤバいのは、大型肉食動物が近くにいること。みんな、これに異論はないだろう。
実際はいないのにいるんじゃないかとビクビクするコストは、本当にいるのにいないと高を括ってしまうコストよりも、はるかに低い。
心配して損した〜と、よく言うが。あれは言葉のあやであり、実はそんなに損をしていない。せっかくのヒントを無駄にしてしまい、莫大な損害を被るよりは、ずっとマシなのだ。
用心しておいた方が良いのである。
我々の祖先は、頂点捕食者であったというよりも、恐るべき環境の不安の中で “つま先立ち” をしていたようなものーーと研究により想像されている。
このように。人間の心は「兆候」 に敏感であるようにできており、あらゆる場面で、意図的なものを見出しがちなのである。
すなわち、私たちは、(まだ)目に見えない存在を信じやすくできている。
という話
このストーリーは、直感的に納得できるように思える。しかし、実際には。一部の学者たちが人間の宗教について知っていることは、これとは相反する内容なのだ。
近年の研究から。成人の宗教心の予測因子として、認知バイアスよりも文化的な生い立ちの方が、はるかに重要であることが判明している。
どうやら私たちは、宗教的信念というものを、文化的環境から獲得するらしい。
そして、それを維持するためには、 “努力” が必要であるという。
ある学者の言葉だが。人間は、2つの社会的世界に生きているという。1つは「取引的な世界」。もう1つは「超越的な世界」であると。
取引的な世界とは
人々の間の、具体的かつ戦略的な相互作用にもとづく世界。死んだ人たちはそこから退場する。彼ら彼女らは、もはや、戦略的に重要なエージェントではなくなる。
超越的な世界とは
社会的な役割で構成される世界。死んでも住める世界。
一笑に付さず考えてみてほしい。
面白い話ではないだろうか。
死者は、本を出版したり・料理屋を営んだりできない。死者と生者は、取引や交渉を交わせない。
しかし。死者が生者の心の支えになってくれる・互いに愛しあった記憶が残るなど、死者の役割は、生者の世界に存在し続ける。
この言葉の中の「死んでもなお、生きれる世界」に、当てはまるのではないか。
チンパンジーのアルファは、物理的に威圧できる存在であることが多い。人間のリーダーは、より役割的である場合が多い。
知性とは何か。
あらゆる種類の知性があると思うが。想像力や言語能力のことでもあるのは、間違いない。
「超越的な世界」(役割的な社会)を生み出し機能させるには、それらが重要であろうことも。
宗教的信念は、国境・法律・政府といったものと、「想像される存在」であり「言語によって補足される存在」であるという点で、共通している。
信ずる者たちは、神や神々や精霊たちや霊の、物理的な存在がある/ないことよりも、それらの役割に注意をはらっているように思える。
人間が国境を実在するかのように扱うことで、自然界には本当は存在しない国境が、ワークするように。(国境はまさに、役割的なものだ)
人が社会のルールに従う理由の、1つとして。そこから何かを得ることができるからーーというのがある。
今日私があの人を手伝えば、明日あの人は私を手伝ってくれるかもしれない。そこに取引的な側面があることは、否めない。
神や神々や精霊たちや霊との関係は、そうはいかない。
それらは、戦略的に操作できる存在ではない。それらとリアルに交渉を交わすことはできないし、脅したり襲いかかったりすることもできない。誘惑や泣き落としもだ。
祈りなど、宗教的な行為のために費やす時間は、「取引上のインセンティブなしに、超越的な世界に規範的要件を認めるもの」なのである。
目に見えないものを信じる者たちは、取引コストを計算することなく、社会的な規範となる義務を果たすことに触れている。
「超自然的存在信念」は任意規定的なシステムを安定させるのに、事実、効果的であるといわれている。
任意規定的なシステム:当事者の意思によって、適用しないこともできる規定のこと。強行ではない規定のこと。
ここまで、複数の観点から見てみたが。
信念とは、認知バイアスの副産物では、片付かないものなのではないか。宗教的行動とは、進化によって組みこまれたものとして、説明される話ではないのではないか。
そもそも我々は、常に、半分物理的で半分想像的だ。私たちは、空想し それを語りあい より良い出来事を信じ 日々努力をしている。
〆に、この歌などどうだろうか。
幼い頃から気づいたらそばにいた
まるで空気のようだ
僕は君とぎゅっと手をつないで
楽しいことも涙も
僕は君に話して聞かせた
僕を笑う人やけなす声が
聞こえぬように君は歌った
次は僕が君に歌うたうから
私には宗教ソングに聞こえる。泣ける。私は人間の信仰心というものが好きなのだ。自分がメインで学んだ分野の次に、多くをさいて勉強した対象。
参考文献 (Works Cited)
コナー ウッド、ジョン H. シェーバー. 2018. “宗教、進化、および制度の基礎: 宗教の制度的認知モデル”