可能なるコモンウェルス〈33〉
「一般的な社会契約理論と人民主権概念にもとづく、民主的な市民社会のビジョン」においては、何よりもまずその社会に内属する人間同士が、「互いに配慮し合わなければならない」のだという。では一体何のどのあたりが、「互いに配慮するべき要点」となるのか?
人間というものは何よりまず「自己の保存に留意する」ものなのであり、「自己自身への配慮」が真っ先にその念頭を占めることになるものなのだ、とルソーは言う(※1)。たしかに「自己保存」の観念は、「個々の人間がまず第一に留意するべき」と念押しされる以前から、個々の人間自体としてはもうすでに「本性的」に備わっているもので、人間のその意識はもうほとんど常に、そちらの方ばかりへと向けられていることだろう。それはまさに「本性」なのだから如何ともしがたいのではあるが、ただしそういった「人間としての本性」とは当然、自己自身のみならず複数あるいは不特定多数の人間=他者もまた同様にそれぞれ持ち合わせているはずなのである。なのに何故かそのことを人間は、「自己自身への配慮」に意識を集中するあまりにしばしば忘れがちになるわけだ。そしてこれもここであらためて言うまでもないことだが、この「忘れがちになる他者への意識」というのもまた、自己自身のみならず複数あるいは不特定多数の人間=他者においても同様に生じているものなのである。
その上でもしもそのように、「自己自身しか目に入らない人間」同士が向き合ったならば、そのとき一体どうなるか?これまたやはり今さら言うまでもないことだろう。いわゆる「自然状態」と形容されるところの、「万人と万人の戦争」に陥っていく、というわけなのだ。
だからこそ人間は、常に「意識して」他者へと目を向け、配慮していかなければならないものとされるのである。そして、その「常なる意識の証し」として、人と人との間を仕切るように「法」なるものが置かれることとなる。ここで法とはまず第一に、そのような他者への「配慮の作法」として、さらにはそのように他者へと自らの意識を向けるよう仕向けるべく「自己自身を律する作法」として、複数あるいは不特定多数の人間たち「全体」に適用されるものである。この、「法の全体的な適用」に浴する複数あるいは不特定多数の人間たちは、「その全体として、その法を介し、互いに互いへの配慮を約束し合う」こととなる。こうして人間は、その誰もがそれぞれ「自己保存の本性」を有し、その本性をまず第一に「自己自身として配慮している」ものだということを、「一つの法の下にあり、全体としてそれに浴している」複数あるいは不特定多数の人間=他者同士互いに受け入れ合い、かつ互いにその恒久的持続を配慮し合うことで、その受容と配慮がやがては、複数あるいは不特定多数の人間たち同士互いの「共通の(=コモン)利益(=ウェルス)」に資するものとなっていく。この「コモン(共通の)−ウェルス(利益)」を、一つの法の下にある複数あるいは不特定多数の人間たち全体として共通の目的として思い定め、それに内属する全ての人々は互いに「一致協力」し合って、その達成を目指すべきなのである。そしてこの、「人間共通の目的および利益のために設立された」ものこそまさしく、「われわれのコモンウェルス=われわれの国家」なのだ。
「一般的な社会契約理論と人民主権概念にもとづく、民主的な市民社会=国民国家のビジョン」とはたいがい、まずはこういう方向へとその話を持っていこうとするものなのだろう。
しかし多少穿って言えば、たとえいくら「表面的には」各人がこのビジョンに自発的かつ主体性をもって「同意」することで、人々が「自らの手によってコモンウェルスを設立した」かのように見えても、一方でこのようなビジョンあるいはロジックが、各人の「外側から」やってくるものである限り、人々の意識がそのビジョンあるいはロジックに回収もしくは「獲得される」形式において、そのコモンウェルスは成立していることになるはずではないだろうか。結局のところ、「ある一つのビジョン=ロジック=法」の下に浴する形式で人間を集団化=共同化しようという場合、話は如何せんこういう方向に流れていってしまうものなのではないだろうか。
〈つづく〉
◎引用・参照
※1 ルソー「社会契約論」