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脱学校的人間(新編集版)〈19〉

 人は誰もが学校という限定された空間で学ぶものである、というように一般では考えられているわけなのだが、実際にその学校の中においてなされている教育の、その対象となっているのは「誰なのか?」といえば、それは言うまでもなく「子どもという限定された時間」を現に生きている、ある特定の人間たちである。
 子どもという者らは何よりもまずそのように、教育の対象として設定されることになる。子どもという者らはそのように、教育の対象とされて当然であるものとして、そのことを誰も疑うことがない。
 一方で、子どもという者らがそのような教育の対象として設定されているのである限り、しかしたとえその対象者が、実際にはもうすでにある程度の年齢に達していたのだとしても、それでもその人は否応なく「子ども扱い」されかねない、ということになる。言い換えると、人は教育の対象として設定されている限り「いつまでも子ども扱いされうる」ということになるわけである。

 教育の対象として設定されている「子どもという者ら」は、実際いたるところにいるごくありふれた存在である。ゆえに「われわれは子どもに慣れてしまっている」(※1)ともイリッチは言っている。この、「慣れ」という指摘はとても重要なことである。そしてそのように慣れてしまっている、「われわれ」という者らとは一体「誰」のことなのだろうかと言えば、もちろんそれは「われわれ大人」以外の誰でもない。
 では、その大人たちの言う「子ども」とは一体、「誰」のことを言うのだろうか?「われわれ大人たちは、一体誰のことを子どもと呼ぶべき」なのだろうか?この世界にはそもそも「子どもという人間が存在している」などと言えるものなのだろうか?あるいはこの世界では「ある種の人間が子どもとして存在している」ということになるのだろうか?だとしたら「現実に存在する、この人たち」がそれにあたると言えるのだろうか?逆にもし「この人たちは、それにはあたらない」としたら、では「この人たち」は一体「誰」だと言うのだろうか?「われわれ」は一体「誰に慣れきっている」ことになるのだろうか?

 たしかに巷のいたるところにでも、「子どもと呼ばれる者たちが、客観的に存在していることは誰にとっても自明のように見える」(※2)だろう。われわれは「子ども」のその姿を見、声を聞き、またしばしば直に触れ合うことだってある。それらの者たちは、たしかに一見して「子ども」である。そう考えればたしかに「子ども」なる者は、この世界に現実として存在していると言わなければならない。われわれはまさにそのような者たちを「子どもとして、この世界の中に見出している」わけである。
 しかし「子どもというもの」は、本当に「彼らのことを言う」のだろうか?
 彼らとて「いつまでも子どもではいられない」だろう。彼らもいつかは当然のようにして「大人になる」わけである。彼らを「子どもとして見出した人たち、すなわちわれわれ大人たち」と同じようにして。そしてたとえ彼らがいつの日にか「子どもではなくなった」としても、この世界には「子どもなるもの」がいつでもいるし、いつまでもいるのだ。考えてみれば、これは大変に不思議なことではないだろうか?
 だが、実のところこの不思議さを不思議と思わない人たちのみが、「子どもを子どもとして見出すことができる」のである。一方その反面でそのような人たちは、彼ら自身が見ている「子どもなるもの」が、実のところ一体「誰であるのか?」ということを、現実として見失っていることにもなるのだ。なぜなら彼らは、「子どものことしか見ていないから」である。そのような人たちにとっては、結局のところ「子どもは誰でもよい」のであり、「ともかく子どもと見なしうるのでありさえすれば何でもよい」と思ってさえいるのだ。そんな人たちが、「子どもとは一体誰のことなのか?」などと気にとめ頭を悩ませるわけもない。それどころか、ときに彼らは「子どもが人間であるということさえ忘れている」ことだろう。
 教育とはまさにそのような者らを、すなわち「ただ子どもと見なされているだけの者ら」を対象としてなされているわけである。

 ここではっきりと押さえておかなければならないのは、教育とは人々が一般に考えているように、「子どもがいるから教育をする」といった受動的な前提に立っているわけではない、ということだ。
 言い換えれば、「子どものために教育がある」という一般的な認識はもはや錯誤に他ならず、むしろ「教育のために子どもがいる」のであり、もしくは「教育によって、その対象となる子どもが発見される、あるいは発明される」(※3)のである。いや、もっと言うならば「教育によって、あるいは教育のために、子どもは子どもとして作り出されることになる」のだ。このことは、前提としてここではっきりと明らかにしておかなければならない。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 イリッチ「脱学校の社会」
※2 柄谷行人「日本近代文学の起源」
※3 柄谷行人「日本近代文学の起源」


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