もう物語じゃないから。
番外2
お久しぶりです。(20日ぶり。)
そういえば私はnoterでしたね。
まぁ暗に引退宣言してるんでいいんですけど。
これ(前々回の記事)の5行目、「華々しく終わろうかな」は
そういうことです。
(本当に引退するか微妙だったので曖昧に書いたっていうだけなんですけど。)
それから前回は「番外1」、今回は「番外2」と、
「第n話」の表現をやめてみたんです。
そんな感じで、あの時なんとなく引退を決めたわけですが、
後から見てみると、
なんか、引退すべくして引退したんだな、と思います。
というのも、
もう物語じゃないんですよ。
順を追って説明しますね。
まず、私は自分の人生を物語だと思ってたんです。
本気で。
ほぼ宗教みたいな感じでした。
遥か昔の第4話にはこうあります。
なんなら私は、
私に事件を仕掛けるシナリオライターの存在(一般的には神様とかいうものです。)を信じていたので、
私の人生は登場人物が作者の存在を言及する
メタ表現のあるギャグ漫画
だと思ってましたからね。
さらに宗教らしく書いたのが第46話の「流刑思想」と「白陽(神)」。
このへんは厨二病を含んでるんで多分わからないと思いますが。
私たちは、白陽に遊ばれているんです。
白陽たちは、幸・不幸を清算しつつ、いかに"面白い"人生を作れるか
で競っているんだとか。
というか、そもそも
「第n話」という表現自体も自分の人生が物語であるというところから
きていますからね。
それが、note投稿という物語と
人生という物語の混同であったことに
前回↓の最後のほうで気づきました。
その前回を機に考えが変わったんですよ。
前回は「アサイド」について書きました。
「アサイド」とは物語の本筋に関係ない出来事。
人生を物語としてみた場合、
このアサイドの多さが気にかかるんです。
というかね、
人生に本筋なんて無いんですよ。
ということに気づいちゃったんですよ、前回。
シナリオライター白陽の存在否定。
いわゆる「神は死んだ」。
余談ですが「神は死んだ」っておもしろい表現ですよね。
「神はいない」ではなく「いたけど、いなくなった」として
存在を認める側面もある気がします。
さて、人生を決めてくれる神はいなくなりました。
全権を神に委ねていたので意志もいません。
じゃあ私の中には何も無いのか。私は消えてしまうのか。
そんなことを考えながら、ある日、塾へ行き、
カードリーダーに学生証をシャッてやって自習室をピッて借りる
一連の動作を無意識にやったとき、
「あっ、身体があった。」
って思いました。
でも逆にいうと、身体があってしまうんです。
無秩序に散らばっている出来事・した事を
身体が無秩序のまま繋いじゃってるんですよ。
これが人生の元来の状態です。
なんかパッとしないですね。
ので、ここで一般の人はどうするかというと、
夢とか目標とかを立てるらしいです。
夢・目標を基準として、そこからの距離によって
各出来事・した事を秩序立てていってる
らしいです。
私はそんな事をしたことはありません。
目標とかは無いですが、
白陽がどこかのゴールに連れて行ってくれるんだろうなぁ
とだけ思っていました。
白陽なんかいませんでした。
無秩序のままでした。
私が見ていたのは、ある意味"夢"でした。
白昼夢的な。
そういうわけで、
前々回の引退は必然的なものだったんです。
ちょうどその後に夢から覚めたということで。
物語は最終話を迎えたわけではありません。
物語は最初から無かったんです。
ですが「神は死んだ」に倣って
「物語は終わった」と言っておきましょう。
以上です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。