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ギルバート・グレイプ―映画と文学―

(文責:夏崎れもん)

 時計の針がどこに止まっているときがあなたはいちばん好きですか。

 私は三時。「三時のおやつ」という言葉のせいで浮き浮きしてしまうから。今日はなにを食べよう、あれを食べよう。どのお皿を使おう、あれを使おう。考えるだけで、わくわく。

 私たちがおやつを好きなのは、それが自分を幸せにするとわかっているから。

 では、想像してみて。「三時のおやつ」の代わりに「三時の本」もしくは「三時の映画」をどうぞ、と言われたときのことを。

 あ、今ずいぶんと面倒くさそうな顔をしましたね、ばれていますよ。でも確かに、美味しいかどうかすぐには分からないなにかって、面倒くさい。だからここでは先に保証しよう。

 この本、この映画、美味しいですよって。

 今日紹介するのは『ギルバート・グレイプ』。

 ん? グレイプってぶどうのことかって? そうだったら確かに美味しいだろうけど、ちがう。これは主人公の名前。

 この物語は、うんざりするほど平凡でちいさな町の、色濃くおおきな出来事たちが、二十四歳のギルバートの視点でつづられる。料理にすると、はちきれんばかりの具を詰め込んだパイとでも言えよう。なにも考えずに読んでしまうと(もしくは観てしまうと)、結局なにが言いたかったのかわからなくなるかもしれない。それぐらい、ギルバートは全てをあっさりと語る。感情を殺しているというよりは、感情をずいぶん前に硬い殻のなかに閉じ込めてしまって、その開け方を忘れてしまったという方がきっと正しい。

 ギルバートには、アーニーという弟がいる。アーニーは知恵おくれの十七歳で、もうすぐ十八の誕生日を迎えようとしている。それはグレイプ一家にとってすごく意味のあることで、豪華なお誕生日会が計画されていた。

 グレイプ一家に父親はいない。ずいぶんと前に自殺してしまった。父が死んでしまってからというもの、美しかった母親はぶくぶくと太りつづけ、しまいにはリビングのソファで一日中テレビを見て過ごすようになる。ギルバートとアーニー、そして母親のほかに、その家にはエイミーという姉と、エレンという妹が住んでいる。もうひとりずつ姉と兄がいたけれど、彼らは家を出て行ってしまった。

 ギルバートは心の中でずっと、自分もこの家から出ていきたいと思っているけれど、優しさと責任感の強さゆえに、家族を見捨てることができずにいる。思春期まっただなかで生意気な妹や、つまらないこと(ほとんどが恋愛)で頭がいっぱいの町の人々を否定的にとらえているのに、それを表に出すことはない。そしておそらく、自分が感情を心の硬い殻のなかに閉じ込めていることや、そのやり方に限界がきていることを自覚していない。ただ、衝動的になにかを壊したくなったり、傷つけたくなったりする自分をコントロールできずにいる。

 ここに現れるのが、町中の男たちを虜にする美少女、ベッキーだ。ベッキーはおそらく誰も気がついていなかったであろうギルバートの感情を、いつもいつも言い当てる。ギルバートはそんな彼女にいらいらし、欠点を探そうとするが、どうしても惹かれてしまう。感情に操られてしまうのが恋だよねえ、と私は思うが、どうやらギルバートは違うらしい。その感情をただひたすらに否定しつづける。でも、先ほども言ったように、感情を自分の中だけにとどめておくのには、限界がある。

 ベッキーと出会ってからというもの、ギルバートの調子はものすごいスピードで狂いだす。アーニーが十八の誕生日を迎える直前に、感情を閉じ込めていた殻は破裂し、ギルバートはなによりも大事に思っていたアーニーを激しく殴ってしまう。困惑したまま逃げ出したアーニーはベッキーの元へ走り、ベッキーは「一緒に水で泳ぎましょう」とアーニーを誘う。

 ここであなたは「なんで水?」と思うだろう。アーニーは少し前にある事故を経験し、お風呂に入ることをやめてしまったのだ。それからというもの、彼はギルバートがどんなに策を練ってもお風呂に入ろうとせず、身体は極限まで汚れてしまっていた。ベッキーはそんなアーニーを「水に入りましょうよ」と誘う。アーニーはなぜかすんなりとベッキーに従う。

 ギルバートはそれを、隠れて見ていた。そしてベッキーに、一体どうやったのかと問う。ベッキーは「簡単だったわ」と言い、「もしきれいにしなかったら、あなたが出てってしまうって言ったの」と伝える。

 私はここで、ギルバートの心を支配していた窮屈でやるせない感情が、まるで空気が抜けたかのようにしぼんでいくのを感じた。そしてギルバートとともに気がつく。そうか、アーニーはギルバートを愛しているのだ、と。

 物語に没入していると、長風呂したときのように、自分の体温を忘れていく。物語と私との境界線が曖昧になる。そして、ギルバートはいつのまにか私になる。

 人生のほとんどをアーニーのために費やしているのに、アーニーが自分を愛していることにはまるで気がつかなかった。あれ、自分に愛情を向けてくれる人がいるなんて、と、呆気にとられる。大事なひとに愛されることは、大事なひとに必要とされることよりも、ずっと大きなことなのだ。

 自分がいなければこの家族はやっていけない。その責任感は、一時的には大きな力を発揮する。だけど、それは理性の上に成り立つもので、感情ではない。なにもかもがどうでも良くなってしまったら、なんの意味もなくなるのだ。

 

 「ここにあなたが必要かどうかはわからない。でもあなたを愛しているの。他の誰でもないあなたに、そばにいて欲しいの」

 

この言葉を、あなたがとびきり好きなひとや、ものすごく惚れたひとに言われたと考えてみてほしい。ほらね、嬉しいでしょ。たとえば今日上司に怒られたとか、鳥の糞が頭に降ってきたとか、反抗期の弟にブスと言われたとか、そんなのどうでも良くなるはず。

 人間だもの、抑えられなくなる感情は、どうか幸せなものであってほしい。私たちは、愛おしい誰かからの愛情に気がつくと、嬉しくなる。閉じ込めた感情の開き方を忘れていても、大丈夫。破裂という乱暴な方法をとらなくとも、あなたはきっと、幸せが溢れでるのを感じることができるだろう。ギルバートがそうだったように。

 こうして物語は、哀しくも美しい最後の展開へと足をふみだす。そう、ここで終わりじゃないのが面白いところ。でも、結末についてこれ以上言及するのは、ナンセンスだからやめておこう。

 最後にひとつ。あなたのまわりには何人か、逃げ場のない、そしてやり場のない感情を抱えているひとがいる。そして、あなたはそんな誰かの、大切なひとかもしれない。あなたにとってそのひとが大切なのだとしたら、どうかそれを、あなただけがもつ心と身体で伝えてあげてほしい。

 きっと、世界が幸せで満たされる瞬間に立ち会えるはずだから。

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