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「長良川」 原田マハ

「人間ってちっちゃいよな。 でも、ちっちゃいなりに、川と一生懸命に 付き合っているんだな。人間って、なんだか可愛いな。」



「長良川」 原田マハ 「星がひとつほしいとの祈り」より



はじめて妻といっしょに長良川に行ったのは、たしか18年ほど前だったと思います。


夜の11時頃に、長良川が見える旅館に着きました。


そのときに目に入ってきた長良川がとてもキラキラとして綺麗で、神秘的・幻想的に見えました。


はじめて見た川なのに「かつてここにいたことがある!」と感じるような、そんな現実と幻想が入り混じった感覚でした。


この物語の「長良川」を読んで、〝川の魅力〟と〝幸せ〟が体の中で心地良いエネルギーをつくり、何かあたたかいものが渦をまくように、体の外に放出されました。


同時に、あの時の長良川の神秘的で 滔滔(とうとう)とした川の流れが目の前に甦ってきました。


そして


今まで普通に生きることができた
〝感謝〟を感じられずにはいられませんでした。


         ◇


窓の向こうには、無風の川辺の景色が広がっていた。


堯子たかこは、娘の麻紀、その婚約者・章吾とともに、堯子の思い出の地、岐阜の長良川を訪れます。


堯子は25歳のとき、新婚旅行で夫の芳雄とこの地をはじめて訪れ、1年前にも夫婦でこの長良川に来たのでした。


それが、芳雄と堯子ふたりで来た最後の長良川でした。


半年前に、夫をがんで亡くした堯子。


今回、娘夫婦と長良川に来て、ようやく哀しみが癒えてきたと感じました。


1年前、夫の芳雄の最後の望みは


鮎が食べたい。長良川の鮎づくしがいい。


堯子は思いました。


ひょっとして、こんな感じで、大好きなものだけ毎日食べて、自分がかたときも離れずにそばにいて、楽しく笑って過ごす生活をしばらく続ければ。ひょっとして、病気なんか治っちゃうんじゃないかな。


今、娘たちといる長良川。

新婚旅行で夫と来た長良川。

1年前に夫と来た長良川。


堯子は3つの場面の長良川の思い出を重ね合わせました。今この瞬間を再生し、一時停止し、巻き戻したりしながら、亡き夫との切なさ、愛しさを想い、記憶の川を遡ってゆきました。


堯子が芳雄と見合い結婚をしたのは、25歳の時でした。今、旅行で一緒に来ている娘も25歳。その倍の人生を生きてきた堯子。


堯子は、お見合いの日のことを思い出しました。


僕と一緒にいらして、たいくつでしょう。あっさりと見破られて、堯子は戸惑ってしまった。何も応えられずにいると、芳雄がさばさばと続けた。

だって、あなたには、せっかくえくぼがあるのに。それがはっきりとみえませんから。


堯子はおもわずぷっと噴き出してしまいました。


そのえくぼ、いただきました。


そうしてお見合いの日から半年後、2人は結婚することになりました。


結婚した翌年、ひとり娘の麻紀が生まれました。ひどい難産で、堯子は三日三晩苦しみました。


ねえ、何か話して、気が紛れること。


堯子は歯をくいしばりながら、芳雄に言いました。


芳雄は大学の土木建築家で、河川と橋の研究をして橋梁の耐久性について教鞭をとっていました。


芳雄は研究で河川の調査に行って帰ってくると、その川の写真を堯子に見せました。そんな芳雄の口から出たのが、一級河川と支流の名前。


北海道、天塩川。支流、似峡川、ペンケヌカナンブ川、剣淵川、新タヨロマ川・・・・・・。


苦しむ堯子の背中をさすりながら、芳雄は川の名前を口にしていきました。


そのとき


堯子の脳裏に浮かんだのが、かつて新婚旅行で夫と行った長良川。芳雄は堯子に見せたいものがあると、長良川に連れて行きました。


芳雄が今まで調査してきた中で、いちばん好きな川が長良川でした。芳雄は堯子と長良川の川辺を川風を感じながら歩き、こう言いました。


川と、川を取り巻くものたち。川があって、橋が架かって、人々が行き来して。川辺があって、家が並んで、釣り人が糸を垂れて。水鳥、魚、鵜舟。大昔からずっと続いている、人間の営み。その中心を、静かに流れていく川。

人間ってちっちゃいよな。でも、ちっちゃいなりに、川と一生懸命に付き合っているんだな。人間って、なんだか可愛いな。


それから月日は流れて


1年前


芳雄はもう命が長くないと、自分でわかっていたのでしょう。堯子と再び、夫婦で長良川を訪れたのです。


鮎が食べたい。長良川の鮎づくしがいい


食事を終えたあと、芳雄は満足そうな笑顔でたった一言。


ありがとう。幸せだった。


その瞬間、堯子は怒りに似た気持ちがこみあげてきました。


どうして過去形なの?
むきになって堯子は返した。

幸せだった、じゃないでしょ?
幸せだ、でしょ?言い直してよ。
じゃなきゃ、いやだ。許さない。

もう、このあと、鵜飼も見にいかないから。


あわてて、幸せだ。と言い直す芳雄。


なあ堯子。
君のほうこそ、幸せか?


その1年後


今、堯子と娘の麻紀と婚約者の
章吾とともに長良川にいる。
鵜飼の屋形船の上で、堯子は
母に切り出しました。


「お母さん。結婚するまえに、ひとつだけお願いがあるの」

(中略)

「一緒に暮らそう。章吾君と、私と」


堯子は思い出しました。
1年前の鵜飼見物の時、
歓声の中で聞いた芳雄の声を。


おれが、死んだら。
一年まえの、あの夜。

こうして鵜飼見物の歓声のただなかで、夫は言った。

なあ堯子、おれが死んだら。
どうか、君の好きなように、残りの人生、生きてくれるか。

(中略)

なあ、堯子。おれが死んで、麻紀が嫁にいっちまったらさ。君はひとりになるけれど。寂しくなるかもしれないけれど。第二の人生、始めてほしいんだ。好きなところに行って、好きなものを食べて、好きな音楽を聴いて。好きな絵を見て、好きな花を育てて、好きな本を読んで。

そしてもし、好きな男ができたら、迷わずに、そいつと生きていってほしい。なあ、堯子。そうしてくれるかな。そうしてくれよな。

おれが、死んだら。


鵜飼の屋形船が、船着場に着きました。


母は、まだ川辺に佇んでいる。
暗い川の流れを、黙って眺めているようだ。

お母さん、と麻紀が呼びかけようとするのを章吾が止めた。そして囁いた。

いまは、そっとしておこう。

 

         ◇


人生って何が起こるかわかりません。
嬉しいことも、悲しいことも唐突に。
想定外のことが襲ってくることもあります。


僕は4年前病気をして、ほぼ1年入退院を繰り返しました。


まさか、命に限定を感じる瞬間がくるとは
これっぽっちも思ってもみませんでした。


病院でCT画像を見せられた瞬間は、


「もう終わった」


って思いました。


この先どうなるのか、わけがわからなくなりました。


取り乱しました。


死を覚悟しました。


「今まで辛いこともたくさんあったけど、僕は幸せだった」と思いました。同時に、「まだ何もできていない、やれていない」とも思いました。


1年でもいいから、生きたいと思いました。


そして


ひとつだけ、妻に聞きたかったのは、君のほうは幸せだったか?


もしも俺が死んだら…


僕もその時、このお話と同じように妻に言いました。


妻は泣きながら言いました。


「子どもの成長をいっしょに見ようよ。この先、ずっと…」


その一言で我に返り、なんとか立ち上がることができたんです。病気を克服しようとする気持ちが湧いてきたのです。


辛かった抗癌剤と放射線治療でしたが、おかげで今は生きています。


生きていることに感謝しています。


僕も妻と行った長良川のことを思い出し、あの夜のキラキラとした幻想的な川面を胸の中で再生し、今、幸せだと反芻しています。


今生きていることは、幻想。

今生きている瞬間も、幻想。


最近よく感じるのは今、幻想を生きているんじゃないかということです。


その幻想を大切に。


悔いの無いように。


あの時のキラキラとした長良川の川の流れのように。





【出典】

「長良川」 原田マハ 「星がひとつほしいとの祈り」より 実業之日本社


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shinku  |  読書ヒーリング
いつも読んでいただきまして、ありがとうございます。それだけで十分ありがたいです。