映画評 十一人の賊軍🇯🇵
『日本侠客伝』『仁義なき戦い』シリーズなどで知られる脚本家の笠原和夫が残した幻のプロットを『孤狼の血』『碁盤斬り』の白石和彌が監督を務める時代劇アクション。
江戸幕府将軍・徳川慶喜を擁する旧幕府軍と、薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍(官軍)の間で争われた戊辰戦争。そのさなか、新政府軍と対立する奥羽越列藩同盟に加わっていた新発田藩で繰り広げられた、同盟への裏切りのエピソードを基に、捕らえられていた11人の罪人が、新発田藩の命運を左右する、ある砦を守る任に就き壮絶な戦いに身を投じる姿を描く。
「首尾良く砦を守り切ったら無罪放免とする」。裏切りの壮大な前振りであることは理解の範疇であったため特別驚きはない。だが戦に出向く以外の生き残る選択肢がない罪人たちにとっては別の話。生きるためには乗っかるしかない。裏切りであることが明かされてもなお、微かな希望を胸に生き残りに挑む姿は、本作で登場する武士よりも武士らしい。アクションには罪人らの生きたいというカタルシスが込められている。
新田藩の実権を掌握し作戦の主格である溝口内匠(阿部サダヲ)の罪人らを人とも思わない無慈悲さが、罪人らが最後まで生き抜いて欲しい観客の願いを切実なものにさせる。溝口の理屈としては新田藩を戦地にしないためではあるが、そのために罪人らを犠牲にしても構わないかつ後始末を前提で作戦が建てられており、人情も義理もない。『孤狼の血』のヤクザよりも薄情に見える。また、藩を守るためなら罪人以外の人間の命も奪うことすら厭わない非常さは、白石監督の映画に登場するヴィランとして相応しい。
罪人らの生きたいマクガフィンが確立し、カタルシスを大いに溜め込んだものの、怒号と顔芸の連発によってカタルシスを解放する演出は目を瞑れない。一度や二度ならまだしも連発してしまえば、生死に一生を賭けた戦いでは緊張感が解れてしまうため致命的に映る。
そもそも時代劇であれば刀を抜くことそのものがカタルシスの解放になるため、怒号や顔芸は本来必要のないこと。白石監督の前作であり時代劇の『碁盤斬り』では、隠居していた元武士が刀を抜くことでカタルシスを解放させることに成功していた。本作は血で血が流れる展開がスピーディに流れ、刀を抜くことがベースの演出になるため監督の手に余ったのだろう。
また、罪人の死に際も無駄死に感が否めない。無論全員ではなく中には自己犠牲の元、仲間のために自ら命を落とした者や急に殺される者もいるため虚しさを覚えた。しかし、飛び出さなくても良いところで飛び出す者、逃げても良いところで無理に挑む者、仲間内で切られる者、決闘を挑んで負けるだけのカタルシスのない死に様など、どうにかして退場させないといけない脚本上の都合が見え隠れしてしまう。当然、怒号と顔芸で死んでいく者には何の感情も湧くわけがない。
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