映画評 グラディエーター🇺🇸
『エイリアン』『ブレードランナー』の巨匠リドリー・スコット監督による、古代ローマを舞台に復讐に燃える剣闘士の壮絶な闘いを描いた歴史スペクタクル。第73回アカデミー賞で作品賞・主演男優賞など計5部門に輝いた。
古代ローマの皇帝アウレリウスは、将軍マキシマス(ラッセル・クロウ)を次期皇帝の座に譲ろうと考えていた。それを知った野心家の王子コモドゥス(ホアキン・フェニックス)は父を殺して玉座を奪い、マキシマスに死刑を宣告する。コモドゥスの手下に妻子を殺され、マキシマスは故郷へ逃れるものの奴隷に身を落とす。マキシマスはやがて剣闘士として名を上げ、闘技場で死闘を繰り返しながらコモドゥスへの復讐の機会を狙う。
マキシマスとコモドゥス、善と悪に振り切った対極に位置する2人の対比が面白い。皇帝を守りやローマの平和と発展のために戦うマキシマスに対し、コモドゥスは皇帝の鶴の一声があれば何でもできてしまう独裁者的な思想でローマを統治しようとする。
両者の性格は戦闘スタイルにも現れる。正々堂々と戦い、時に慈悲深く対応するマキシマスに対し、戦闘に持ち込む前に決着をつけようと暗躍し、容赦なく相手を殺すコモドゥス。正々堂々VS卑劣、慈愛VS酷薄という真逆の性格・戦闘スタイルを持ち合わせており、マキシマスの復讐というストーリーに感情が乗りカタルシスが生まれる。
ラッセル・クロウとホアキン・フェニックスの演技力も本作を重厚感のあるドラマとして成立するのに一役買った。両者共々感情を表に出さないようにしているが、それでも滲み出てくる感情や本性が現れており、カタルシスとして機能した。マキシマスは強さと愛を、コモドゥスは愛されたい欲望と劣等感。戦闘シーンだけでなく、ドラマも濃密に描かれており、終始画面に釘付けになった。
「この世の人は塵と影」の台詞が象徴するように、人間の野蛮性を的確に言い表す。本作で描かれるのは、ありとあらゆる種類の人間が本来併せ持つ野蛮性だ。
グラディエーターという職業もさることながら、人が戦いどちらかが死にゆく様をエンタメとして成立させたビジネス。そして、それらを求める観客という共犯関係の構図が恐ろしい。グラディエーターは奴隷でもあるため、戦いたくて戦っているわけではない。しかし、生き残るためには相手を殺すことは厭わない。そして生きたい執念がぶつかった本気の勝負に観客は興奮する。フィールドでは恐ろしいことが起きていることを理解しているにも関わらず、見て見ぬふりをしているのが身の毛をよだつ。
皇帝アウレリウスは、ローマ帝国に平和をもたらすために、各地で戦争をし統治するのだが、戦争で平和をもたらせようとする考えそのものが野蛮性に満ちていると言える。各地の文化や思想を消滅させ、自分たちの文化や政治思想を植え付ける略奪と侵略だ。「20年以上戦って平和だったのが、たった5年」の台詞は、自らが野蛮であることに気づいてない無自覚の加害性と自分勝手な被害者意識が見え隠れする。
正しさを失い大きくなりすぎたローマ帝国を統治しようとするコモドゥスは権力に飲み込まれるだけでなく、人の血が流されることに興奮を覚える観客から愛されたい欲望を解放してしまう。良き国を作ろうとした結果が、野蛮さを抑えきれない人々で溢れる国になってしまったのは皮肉な運命だ。
マキシマスの妻子は殺されずにすみ、マキシマスは復讐を遂げるためにグラディエーターとして多くの人を殺さずに済んだかもしれない。血は血で洗う負の連鎖が何とも居た堪れない。