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映画評 箱男🇯🇵

(C)2024 The Box Man Film Partners

安部工房による同名原作小説を『狂い咲きサンダーロード』『蜜のあわれ』の石井岳龍監督によって実写映画化。1997年に制作が予定されていたものの、クランクイン直前で頓挫した幻の企画を27年の時を経て実現。

完全な孤立、完全な匿名性、ダンボールを頭からすっぽりと被った姿で都市をさまよい、覗き窓から世界を覗いて妄想をノートに記述する「箱男」。カメラマンの“わたし”(永瀬正敏)は街で見かけた箱男に心を奪われ、自らもダンボールを被って箱男として生きることに。それは人間が望む最終形態であり完璧であったが、数々の試練と危険が襲いかかる。

箱男は現代社会における一種のカウンターなのかもしれない。というのも社会は過剰な繋がりのもと成り立っている。家族や職場といった身近な人とは密なコミュニケーションが求められる。それに、SNSなどインターネット上では24時間あらゆる人と繋がっている。

さらに、見渡せば広告や商品で溢れ、生産主義・資本主義の一部であることを強制させられる。ネットが発展してからは政治に関わる機会も増えた。

過剰な繋がりを持たされ、半強制的に生産・消費、政治に参加させられる現代においては箱男はまさに完璧な存在だ。積極的に社会と断絶し、箱の中という孤独な世界へと自らを誘う。そこには人間関係も無ければ、資本主義へと半強制参加させられることもない。簡潔に言えば楽だ。


(C)2024 The Box Man Film Partners

もう一つ、本作を観て一つ確信に変わったことがある。世の中は箱男のように物事を捉える視野が狭くなっているということだ。

社会との断絶は孤立を意味する。箱の中から見た世界から自身の妄想で解決するしかない。”わたし”が葉子(白本彩奈)に対し「偽医者に弱みを握られてる」ストーリーを頭の中で組み立てる”わたし”は自らを英雄視するようで滑稽だ。

SNSが普及してからというもの人の一面で断罪する人が増えたのは事実。本来人は多面的な生き物で、一つの側面からその人の人間性を理解できるわけもない。だが、狭く偏り、自身の都合の良い意見を用いて、そこから悪き人間像を膨らませ邪悪な権化かのようなストーリーを作り上げる。

1973年と原作が発表されてから50年以上経つ。箱男とスマホを持ちSNSを用いて自身の想像を投げかける行為と大差ない。また、広い世界に生を受けたはずなのに、ネットにどっぷり浸かっている現代の現象を見てみると、安部工房は未来を予感していたのかもしれない。


(C)2024 The Box Man Film Partners

箱男は匿名性に守られた”見る側”の人間だ。朝井リョウの『何者』でもあったように、匿名性に隠れて、対象者を分析し、想像力を膨らませつつ斬る。何者かになれた快感、意見を述べる痛快さに溢れる。

ニセ医者(浅野忠信)が箱男の魅惑に取り憑かれ、自らも箱男になろうとするのは、これまでの人生から切り離すことができる快感に見舞われたからかもしれない。

箱男とニセ箱男は”本物”であることを賭けて戦う。唯一無二の存在として、世間から距離を取る俯瞰者としているために。しかし、より俯瞰的にみると本物の箱男になれるかどうかはどうでも良い。何を狭い世界で争っているのだと。

自ら社会から距離を取り、人目につかないよう生きてる者などに他者からの関心などない。ラストシーンで数多くの箱男・箱女が”わたし”を見つめるシーンがあるが、世の中の人間の多くは、自分だけの世界、自分だけの考えを持つ箱男であるからだ。箱男の希少性は皆無に等しい。

むしろ、真に希少性があるのは葉子(白本彩奈)のような肌と肌が触れ合うような血肉が通った存在の人なのかもしれない。

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