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気になるジーサン《平手政秀》 [1/2] 「奇行平癒」に狛犬奉納
ご近所に、ずっと気になっているジーサンがいます。
歴史上の人物なので生まれた時からジーサンだったわけではないでしょうが、歴史ドラマにたまにチョイ役として顔を出す時は必ず、既にジーサンになっているので、私たちがこの人で脳裏に想い浮かべるのは当然、ジーサン顔です。
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名古屋市北区の地下鉄黒川駅から北方向に、散歩と称して徘徊中、とある神社入口の立て札に、ふと目が止まりました。
「綿神社」とあります。
教育委員会の立て札によれば、
・「延喜式」に載る格式の高い神社で、社名は「海神綿津見神」の娘を祀っていることに由来する。
・戦国時代、この地に屋敷を構えた平手政秀は、荒廃した社殿を再興し、鏡と手彫りの狛犬を奉納して主君織田信長の奇行・粗暴の平癒を願った。
お、出た! 平手政秀!
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「神仏習合」を明治初期の「分離令」で無理やり分けたためでしょうか。
その後ろにある「由緒書」はもう少し熱が籠っています。
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志賀村の領主平手政秀常に信長の奇行を心痛せるが、天文21年綿神社を再建し、「願主政秀」と刻銘せる神鏡と自ら手彫りの狛犬1対を奉納した。
政秀の祈願は察するに余りあるも、祈願空しく翌天文22年正月13日遂に諌死するに至った。
爾後信長の態度一変し天下平定の基を開いたのも実に政秀の誠忠に依る。
即ち政秀なくば郷土三英傑の出現もまた疑問ではなかろうか。
『政秀がいなければ三英傑(信長・秀吉・家康)も出現していたかどうか?』
とまで書いてる!
①《政秀の諌死で信長は覚醒した》
②《覚醒した信長なくして、後継の秀吉・家康なし》
という論理ですな。うーん……そうかも。
それにしても、「自ら手彫りの狛犬」は凄みがありますね。金で買ったモノを奉納したわけでなく、「奇行・粗暴の平癒」を祈りながら齢六十過ぎた政秀自ら彫ったとは! 鑿に槌を振るっている情景などは、「諌死」自体より、鬼気迫るものを感じます。
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偶然とはいえ、これは大発見だ。こんなところにジーサンが潜んでいようとは!
うーむ。では、行かざるを得ないね ── 志賀公園に。
元志賀町の綿神社から志賀公園まで、1 km弱歩きました。
志賀公園は、南北200 m、東西250 mぐらい、かなり広く、庭園領域とグラウンド、子供遊具領域から成っています。
庭園部分の中央には池もあります。
あとひと月ほどで桜が見ごろです。
ここが、平手政秀の居城・志賀城(西志賀城)の跡地です。
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志賀公園を含む3つのブロックの町名も「平手町」。
もちろん、かつてここ「志賀」の地に屋敷のあった、織田弾正忠家次席家老・平手家からとっています。
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政秀の居城跡地ですから当然かもしれませんが、またまた、信長、書かれています……。
信長はかねてから行状が悪く、政秀は日ごろからこれをいさめていたが、父信秀の死後も一向に改まらなかった……信長の将来を絶望した政秀は、この地で自害した。
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さて、気になるジーサンをめぐる遠足は、この日はここまでとします。
ところで、ジーサンのどこが気になるかと言えば、
A 信長は「うつけ」であった。
B 政秀は頭を痛め、諫めても直らない。
C 政秀は自死する(理由は諌死説以外もあるようです)。
D Cを契機に信長の行状は大きく変化する。
つまり、Aは起点として存在しており、B、C、Dと進行する。
ジーサン政秀はBでようやく登場し、
「困った、困った」
と頭を抱えている ── これはどうなんだろうか?
Aの成立要因に傅役、つまり教育係であったジーサンは、そもそも関わっていないのだろうか?
[2/2につづく]