言語化をするということが、どうやら苦手らしい。するすると言葉が流れ出てくることもあるが、錆びついた歯車のように、脳の回転がうまく噛み合わない時がある。人の前で話す機会が増えたからか、こうした悩みに敏感になっていた。 もう半年以上も文章を書いていない。毎日のように心の言葉を取り出すことをしなかったせいか、どうやって文章を書いていたのかを思い出せないでいる。いまもこうして文章を書き始めたはいいものの、以前までのような快活なリズムを持って書き出すことは難しい。取り留めのない文章だ
随分と長らく、人と話をしていても疲れない日々が続いている。正確に言えばとても疲れてはいるのだけど、以前より億劫には感じなくなった。新しい人と出会う機会も多くなり、うつ気味だった自分とは一変して、そう気味な状態が長く続くようになった。 僕としては珍しく、快活な日々が続いていることに対して嬉しい一方で、朝から晩まで活発な暮らしには、そろそろキャパオーバーを迎えることにも気づいていた。 夜は18時から23時まで、毎日のように面談が入っている。既に本業?よりもさまざまな副業の方が
7月16日(日) 晴天 京都へ向かう電車のなか、持て余した時間をどう過ごすかを考えながら、ぼうっとしていた。随分と長らく遠出をすることもなかったので、遠足のような心持ちで当日の朝を迎えた。関西に戻るのはおよそ1年ぶりになる。 スマホに入っている唯一の電子書籍は川端康成の雪国で、何度も読んだことのあるそれを、飽きもせずにまた読み返していた。風景描写の美しさ、繊細な言葉選びの感性は、僕は日本の作家のなかでは一番に好きだと思う。電子書籍はあまり好きではないと言っていたが、特に古
朝になる前の、夜の明ける静けさをとても気に入ってる。あたりはまだ群青色に溶けていて、それは朝というより、夜よりも少し明るい色のした何かであった。一番早くにその何かを感じ取った小鳥が「ちゅん」と鳴く。やや間があって、その音を皮切りに、皆がその合図を今かいまかと待っていたかのように鳴き始めるのだ。僕にはその「ちゅん」の前後に潜む朝の気配を感じることができなかった。今日の朝の始まりは、4時32分だった。 生まれてはじめて、本に寄稿するエッセーを書いている。言葉に集中したいので
面白い文章を書こうと意識していた頃もあったのだけど、最近はそうした文章を書くこともなく、淡々と日々の記録として文章を書くことが多い。エッセイばかりを書いていた頃、その作風に慣れてしまったせいか物語のような文章の書き方を忘れてしまうことがあった。 上手に比喩表現を使ったりすることは似ているのだけど、読み返してみるとエッセイや詩のような言葉を無意識に選ぶようになっていたので、あまり書かないようになったのだ。 このnoteは意外にもたくさんの方に読んで頂けているようで、僕のno
朝。この頃は22時に寝て6時に起きる生活が習慣になって、健やかな日々を送っている。12月も寝ているうちに過ぎ去り、1月の朝がやってきた。窓に映る富士山は薄い青に溶けていたが、朝日が射すとその輪郭はくっきりと映し出され、その凛々しい佇まいはまるで時代劇の幕開けのように美しく映った。 けれど、年が明けたという感覚はまだ消化できていないままでいる。今年という単位をあまり上手に区切ることができなくて、その境目が曖昧な地続きのなかで暮らしている。山梨に来てまだ日が浅いからなのか、春が
暑い陽気を秋風が吹き飛ばし、ようやく涼しい日々が訪れたように思う。朝晩は肌寒く感じるほどに冷えた空気が部屋に満ち、寒いという感覚を久しぶりに思い出したような気がした。それと同時に、暑いという感覚をもう感じることは久しくないのだと思うと、少し残念に思った。季節の終わりを迎える度に、そうした名残惜しさと期待を持って次の季節に向けて準備をはじめる。その繰り返しを些細に気にかけることができるかどうかで、暮らしの豊かさは随分と変わってくるように思う。 ようやく体調が回復してきて、ずっ
先日、台風が近づいているなか、『こうふのまちの一箱古本市』に出店してきました。早朝から大雨が続いていたけれど、搬入の頃には小雨になって、お昼には晴れ間も見えるような天候に。一日中雨予報だったのにもかかわらず、過ごしやすい天気に恵まれました。寂れたアーケードもその日は多くの人で賑わいを見せ、老若男女問わず様々な人が本を手に取り、言葉を交わして笑顔になるその光景が、僕には和やかに映りました。 本を好きな人が集まって、本の話をする。ただそれだけのことが、いままで「本と自分」という
温泉に浸かって、ぼうっとしていた。一様に切り取られたように垂れた稲穂は整然として、うつくしいほどに見事な列を成している。遠くには川と緑に囲まれた街が覗き、青い空とのコントラストのなかに消えていく。 隣ではご老人の他愛のない会話が聞こえ、まだ季節の盛りであると言わんばかりのセミの声が鳴っている。ぬるま湯に浸りながら、僕はぼうっとしていた。それら全ての情報は、僕のなかへ勝手に飛び込んできて、僕のなかで蓄積されずに通り抜けていく。漠然としたその景色は解釈されることなく、漠然とした
8月2日 簡単な日記を書こうを思い立つ。8月になったから、という訳でもなく、なんとなくふと思いついたので書いてみようと思った。昔から人の他愛のない日記が好きだった。誰に見られるでもない、空気のように漂っているだけの、そんな日記を読むのが好きだった。いつしか凝り固まった自尊心のせいか、自分ではそうしたものが書けなくなって、歳を追うごとに日に日に文章は冗長となっていった。垂れ流れてくる言葉たちをとりあえず書いてみては消し、少し文学的な表現にしてみたり、読み物として、作品として
近況を少し残しておきたいと思います。 山梨に来てもうそろそろ3ヶ月が経過する頃。街にはずいぶんと慣れてきました。ある程度過ごしやすい便利な側面を持ちながら、地域に住む人の交流が身近な村社会である部分もあって、田舎ならではのこぢんまりとした空気はやっぱりどこも一緒なんだな〜と感じることも増えました。 2度目の移住経験を経て、そうした外の視点のなかでも様々な地域の持つ特色や文化の違いを比べることができるのは、面白い体験です。僕の移住は華々しいものではなく、もっと言えば切羽詰ま
日本酒のように、ちびちびとお猪口を手に味わうような文章が好きだったりする。それは、その味わいを嗜む居心地の良さであったり、言葉のリズムであったりもするけれど、そこに漂うある種の哀愁そのものが好きなのかもしれない。 朝であれば、窓から差し込む自然光が部屋を満たし、その白さだけを頼りに静謐な時間のなかで本を読む。夜であれば、ベランダに続く窓をを開けて、湿ったなめらかな風が吹き混んでくる、あの匂いのなかで本を読む。 そうした空間に合う、本の持つ雰囲気というものが確かにあって、い
鰹節をふんだんに盛り付けて、細かく刻んだネギと生姜、醤油を少し滴らした冷奴を毎日食べている。とってもおいしい。たまに豆腐が崩れて醤油がぴしゃりと跳ねるので、白いシャツを着て食べないように心がけている。ここ数日のあいだに、何度洗面所へ駆け込んだことか。 今日はそれに、きゅうりを簡素に塩漬けにして切っただけのものと、梅肉に漬けた沢庵、餃子とビールという、なんとも贅沢な夕食であった。ちなみに、きゅうりも毎日買ってきている。 夜はベランダに続く窓を開けているだけで、湿ったなめらか
最近の近況を残しておこうと思い立つ。 このところ慌ただしい日々を過ごしているので、言葉にして残しておきたい。僕の文章を読んでくれている人たちには、きっと素直な気持ちで言葉にできるような気がするのだ。 まちづくり 移住をしてからというもの、まちや人との交流がたくさん増えるようになった。もともと社交的な人間ではないので、まちの人たちは温かく迎え入れてくれて感謝する一方で、少し疲れてしまう部分も多くあった。 知らない人と出会うのはとても苦手だけど、バリスタとして接客業をずっ
古本屋に行くと、ついつい時間を忘れてお宝探しのような感覚に没頭してしまうことがある。 新しい書籍は次々に増え続けているけれど、それらを追いかけ回すのはあまり好きではない。そうでなくても、既にもう人生をかけても読み切ることのできない本たちを、私たちより先に生きた人たちが残してくれているのだから。 そして古本の魅力は、私たちの生きる時代から離れた哀愁を感じさせ、その当時の生活風景や土地の様子が記されていたり、普段は手に取ることのない分野の本にも、同じ”古本”という陳列の中から
『山を歩きながら、あまり刑事上学的な考えごとをするのはいい傾向ではない。そこに在る物、そこに生きている生命に見とれる状態、そこから悦びを紡ぎ出すことこそ巧みにならなければ、山歩きは陰気くさくなる。特にひとりの時は。』 串田孫一著書『山の独奏曲』のなか、「霜柱」の冒頭に書かれたこの一節が、時より頭をかすめることがあった。ぼんやりとその意味を掴むことはできるけれど、それを言葉にしてしまうのは難しい。おそらくそれは、まだ言葉として形を成すことのない”何か”として、頭のなかに居住ん