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空にみずうみ

日本酒のように、ちびちびとお猪口を手に味わうような文章が好きだったりする。それは、その味わいを嗜む居心地の良さであったり、言葉のリズムであったりもするけれど、そこに漂うある種の哀愁そのものが好きなのかもしれない。

朝であれば、窓から差し込む自然光が部屋を満たし、その白さだけを頼りに静謐な時間のなかで本を読む。夜であれば、ベランダに続く窓をを開けて、湿ったなめらかな風が吹き混んでくる、あの匂いのなかで本を読む。

そうした空間に合う、本の持つ雰囲気というものが確かにあって、いまはそういう本が読みたい気分であった。



6月も終わりを迎えようとしているけれど、今年の梅雨は晴れ間も多く、あまり雨が気になることはなかった。毎日のように雨が降り続く年もあれば、今年のようにざっと降っては晴れての繰り返しとなるようなこともある。

雨のなか読書をする時間も好きなので、そうしたひと時がこれから減ってしまうのではないかと考えると、梅雨の終わりに少しばかりの名残惜しさが芽生えた。天候に霊的な何かを期待することはないが、雨の降っている間は、神様に家でじっと過ごしてもいいんだよと、優しい言葉をかけて貰えているような気がしていた。休日に家でじっと過ごすことに、真っ当な理由が生まれるような気がして、外に出ない生活を肯定することができたのだった。

梅雨の時期というと、どんな本が思い浮かぶだろうか。僕はなぜだかいつも思い浮かべるのは、佐伯一麦さんの著書「空にみずうみ」なのだ。この本は2011年の大震災から3年後の、2014年から約1年に渡って、読売新聞の夕刊に連載されていた小説である。

東北地方に移り住んだ作家である早瀬と、染色家である柚子との暮らしを季節を通して描いたもの。ちょうど連載がはじまったのが6月23日であったことから、この小説は梅雨の季節から物語がはじまっている。

私小説的な側面もあり、時より見せる日記のような面影は、この一冊の持つ優しさと、慎しくも淡い日常の風景を思い出させてくれる。早瀬と柚子の過ごす日々は他愛のないようで、どこか懐かしい記憶を辿るように大切に残しておきたいものばかり。

震災について、自然災害のことについて触れる場面もいくつかあるけれど、この物語で描かれている情景は、大震災後の生活であり、移りゆく時間の流れであり、そこにある日常なのである。

無花果の甘露煮を作ったり、ときにカミキリムシに紙を切らせてみたり。青葉木菟や画眉鳥の鳴き声に耳を傾け、イブキジャコウソウなどの草花の香りを愛でること。そうした他愛のない日常性を淡々と描き続けるなかで、そこに切り取られたその瞬間の集積は、ずっとこの一冊のなかで生き続けているのだろう。

震災について触れる部分がある一方で、その被害を深く映し出すことなく、敢えて『その後の日常』に注力して物語が描かれていることを不思議に思っていた。

けれど、日常という言葉から、『狩りの思考法』という本のなかで、著者である角幡さんが語っていた言葉を思い出した。

「日常とは安全が担保された時間の流れなのではないか。というのも安全こそ日常の本質だと思われるからである。」

佐伯さんはこの一冊のなかで、淡々と細やかな情景や季節の移り変わりを描くことによって、そこに潜む日常性を映し出している。自身の人生や生活を重ねて物語を描くことこそが、震災のあとに続く、震災のあとに願う、安全の担保された日々なのではないかと感じた。だから、丹念に日常を描いていたのだろう。



今日もアイスコーヒーを片手に、ちびちびと「空にみずうみ」を読んでいる。梅雨もすっかりと明けたような気候で、照りつける眩い光は、夏がもうすぐ目の前までやってきていることを告げていた。

窓から流れる風はまだ涼しさを含んでいるけれど、じんわりと汗がにじみ出るほどの陽気が部屋を満たしている。今日のお昼はそうめんにしよう。本をゆっくりと読みながら、そんなことを考えていた。

いい休日だなと思った。



『空にみずうみ』 / 佐伯一麦

大震災三年後の東北。移りゆく自然とめぐり来る季節がさりげなく前を向かせてくれる――。作家の早瀬と染色家の柚子、夫婦のある一年。



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